瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

祖母の蔵書(150)辞書①

 ここには祖母の持っていた辞書を纏めて置きたい*1
・『ど忘れ二・三・四字熟語活用辞典』平成9年5月1日 初 版・定価1,438円・教育図書・305頁・20.0×12.0cm

 合皮表紙にカバー。
講談社+α文庫 H-5-1 講談社 編『最新カタカナ語辞典』1994年10月20日第1刷発行・定価1165円・580頁改訂新版読み・書き・話す故事ことわざ辞典』1988年 4月15日 初版発行・1999年12月10日 改訂新版第1刷発行・2000年 5月 9日 改訂新版第2刷発行・定価1,500円・学習研究社・594頁・新書判 合皮表紙にカバー。
・グループタマル『大きな活字カタカナ語辞典』2002年4月20日   発行・定価920円・日東書院・319頁・16.0×8.0cm 合皮表紙にカバー。319頁裏の奥付には「著 者――グループタマル」とあるが、カバー裏表紙折返しの奥付には「編 者――グ ル ー プ タ マ ル」とある。
 以前も書いたように漢字は得意であったから「ど忘れ」辞典で、得手ではなかったろうカタカナ語の辞典は2冊座右に備えていたことになる。
 以上4冊は居間のソファの脇にあって整理が追い付かなくて持ち帰った。居間のソファ脇にあった本は既に述べたように、煤のようなものを被っていて、ちょっとどうしようもないのでこのまま廃棄するつもりである。
 他はメモだけ取って祖母宅に残して来た。時期を見てここに追加する。ただ、漢和辞典は「漢字」のところに含めて置こうと思う。(以下続稿)

  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 私が女子高の講師をやっていたときに驚かされたのは、紙の辞書を買わせなくなったことで、非常勤では生徒にどのような指示が出ているのか、そう云った資料も見せてもらえないので(専任教諭のところに行って見せてくれと言えば見せてくれるだろうが、まぁ余り話をしに行きたいとは思わないので)生徒に聞いてみると、もう電子辞書で良いと云う話だった。勤め始めた頃は英語科に、みっちり予習をさせ、答えられないとその場で辞書を引かせる圧の強い女性教諭がいたためか、国語科でも紙の辞書を生徒が持って来ていて私もその場で調べさせたりしていたのだが、その人が定年退職後の再任用で中学の講師になると高校ではそう云った縛りが取れて、電子辞書で良いのではないか、と云うことになってしまったらしい。同じ頃に代わった英語科出身の教頭が(前任者も英語科出身だったのだが)国語科の講師の採用面接の際に何故古文を勉強しなきゃいけないのか分からない、と放言するような人だったから辞書引きなど軽視されそうで、それでなくとも世間の風潮が、別に重たい紙の辞書を持たせなくても軽くて手間の少ない電子辞書を使いこなせれば良い、と云う方向になって来ていたから、私など頭の古い人間は、やはり部首と部首毎の画数、そして同じ旁の文字から音を推定して引いてみたり、さらには同じ文字から始まる前後の類語、派生語なども見渡すことの出来る紙の辞書でみっちり勉強した方が良いのであって、電子辞書なぞはそういう勉強を終えた大人が、頭脳の衰えから度忘れしてしまったのを助けてもらうツールとして活用するべきで、これから身に付けて行くべき若者には不適だと思っていたのだけれども、見る見るうちに生徒は辞書を引かなくなって、持って来るように言っても平気で「ありません」と言うような按配になってしまったのである。しかし今やスマートフォンを持っているのが当たり前になって、いよいよ物を調べるのは紙に頼らなくなるであろう。しかし祖母の蔵書を整理した(まだ終わっていないが)今となっては、それはもう仕方がないし、そうなるべきだとしか思えなくなったのである。
 10年くらい前、私は『明治二十九年の「百物語」』『昭和十四年の「赤マント」』『昭和六十三年の「学校の怪談」』と云う怪談史三部作を計画して、しかし今はもうそんなものを出そうと云う気が失せている。放棄したのではない。青木純二に関連して蓮華温泉や雪女、信濃越中の伝説、山本禾太郎、三田村鳶魚日記、赤堀又次郎、笹野堅、道了堂についても何とかしたいと思っている。しかし本にしようとは思わない。せいぜいもう少し見易い形で纏められれば良いと考えている。本にしても良いと云う奇特な版元があれば乗るけれども。しかし、私はここ数年で、文筆業で稼ぐ、さらには生計を立てる、と云う行き方にかなり懐疑的になっている。身過ぎのために余り価値のない書き物を続けざるを得なくなっている書き手も少なくないのではないか。私は他人の褌で相撲を取るような書き物・書き手は淘汰されるべきで、そのためには、書き物で稼げない環境が整えば良い、くらいに思っているのである。同じことを繰り返し書くような人も困りものである。
 もちろんこれは今に始まったことではない。例えば当ブログでは杉村顕の信州の伝説、末広昌雄の山の伝説や怪談が、ほぼオリジナリティのない(のにオリジナルを装った)ものであることを指摘した。近年、杉村氏の書き物をオリジナルと誤認して再評価しようと云う動きがあり、末広氏の方は忘れられた書き手だが、ちょいちょい民俗学のデータベースがオリジナルと誤認させるような扱いをしたことの弊害が現れている。――忘れられるべくして忘れられている書き手・書き物はそのままで良い、しかし故なくして埋もれている書き手・書き物は掘り起こして顕彰すべきで、いや、これに関連して間違って評価されてしまった書き手・書き物についてもきっちり批判すべきだと考えているのである*2
 少々長く題にそぐわない余談を続けているのは、どうも5月以来私が祖母の蔵書整理にかまけている間に、私がやりかけて中絶している幾つかの課題について、どうも、奇妙な方向での新しい動きがあるらしいことに気付いたからである。祖母の蔵書はまだまだ片付かないのであるが、それら私の気になっている動きも何もしないでは止められない以上、少しは異議を表明して置かないと取り返しが付かなくなる可能性がある。――家人は私が祖母の蔵書整理をしていることを無駄なことと思っているらしく、昨年目録を作り始めた頃には、――誰もそんなことは望んでいない、おばあちゃまも望んでいない、あの本にそんな価値はない、と云って、別に高値の本を見付けようとしている訳ではない私を驚かせ、かつ当時は祖母の家の合鍵は家人が持っているだけで、一々断って借りないといけなかったのを何となく凹ませて祖母宅に行かせないようにしているかのようだったが、近頃でも、矢鱈と早く止めて以前のような内容にするべきだと言い、最近閲覧数が少なくなっているのではないか、と言って来るのだが、残念ながら当ブログの閲覧数は最近、低値(!)安定で別に何をやっても閲覧されていない。実は、当ブログで詳細に検討した本の改訂版が、公開されている細目を見る限りでは内容に変更なく、むしろ妙な方向に拡充(?)された形で出るらしいことを先日知った。もちろん当ブログには全く気付いていないらしい。最近切り替えが上手く行かなくてデータが更新されなくなった Google Analytics で見ていた限りでは、その記事は「世田谷」から継続して閲覧している人がいただけで、問題の本の筆者は(もちろん、関連する問題を取り扱っている人たちも)全く気付いていないようであった。いや、私は当ブログでその本についてかなり致命的な指摘をしたつもりだから、当人が気付かなくても版元の編集者がチェックして改訂させないものかと思うのだが、まぁ、そんなことをすると出さない方が良くなってしまう。いや、私はもちろん、出さない方が良かったと思っているのであるが。しかし殆ど閲覧されないのでは私がここで何をしようが焼石に水である。しかし何もせずに変な本が出てしまうのも嫌な気分なので、そちらもそろそろ再開しようと思っている。
 辞書の話に戻すと、辞典編集部を縮小したり、もう改訂しないつもりで廃止したりしている大手版元もあるらしい。コトバンクWeblio、JapanKnowledge のようなネット辞書として展開しているところしか生き残れないかも知れない。こうなる直前には、中辞典の大型化が流行っていて私の家にも CD-ROM が附録になっているデカい辞書があるのだが、普段物置に仕舞ってたまに出すときに手首を傷めそうになる。CD-ROM は一度も取り出していない。思えば時代に逆行した書物だったが、今、古本屋や新古書店はこうした使いづらい辞書をどう評価するのだろうか。重たくて持ち込むのも大変だが。

*1:2023年10月11日追記10月10日付(156)に述べたような事情でここには追加しないことにした。また題を「祖母の蔵書(150)辞書」から改めた。

*2:いや、杉村氏も末広氏も専業の書き手ではないので例としては少々不適だった。