瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

祖母の遺品(11)

・若山家の関東大震災(10)佐藤歯科医院③明治
 9月9日付(09)の続き。
 当ブログは翌日の記事を投稿するくらいまで、特に断らずに加筆修正している。投稿後に眺めると編集画面では気付かなかったアラが目に付く。かつ、ここまで書いて置こうと思っても入力しきれないことがある。――一昨日の記事は後者の例で、半分くらいは昨日追加した。長くなっても1つの記事である程度纏まっていることが望ましいし、日付を跨がないよう急いで入力すると間違いが多くなる上、睡眠を削ることになる。だから無理せず翌日に追加することにしたのである。
 もちろん、要点だけ書いて行けばそんなに時間は掛からない。しかし、要点だけ見たのでは見落しが生ずる。論文を書くのであれば、私とて要点しか書かないつもりである。しかし、ここは作業メモとして不要な調べまで一応残して置きたいと思って、幾ら書いても良いブログと云う場所で、何処まで調べてあるのか手の内を全て曝すことにしているのである。いや、ある程度の見通しが付いてしまって意欲が湧かなくなって、或いは止めを刺すに忍びず、或いは妙な輩に良いように使われそうだと思って、最後まで書き上げずに「下書き」のまま放置している記事、見通しだけ立ってまだ調査を実行しないでいる課題が、それぞれ数百あるのだけれども。もちろん大した内容でない記事が殆どである。
 が、それにしても、幾らでも調べられるようになった。――以前ならある程度のところで、切り上げてしまうしかなかった。国立国会図書館に通い詰める訳にも行かぬからである。近代デジタルライブラリーの頃、国立国会図書館まで歩いて10分程のところにある女子高の求人に応募しようと思ったことがあった。結局応募しなかったし、まぁ採用にはならなかったろうけれども、国立国会図書館に近いと云うのはそれだけ魅力的であった。いや、調べ物のためには行かない訳に行かぬのだが、余り行きたいと思わないのである。近くに勤めておれば、歩いてすぐ、余り疲れない短時間で、例えば放課後に1~2時間程度、午後の授業がなくなった折などにはじっくりと、1回の出納で余裕を持って見ることが出来る。出してもらったものが見当外れだったりしても、逆に2時間では済まない情報量を含んでいたりしたときも、余りがっかりしたり焦ったりすることもなく、また明日か明後日出直して来れば良いと思える。わざわざ出掛けると、交通費も掛かる訳で、短時間滞在では勿体ない。しかし長時間では疲れる。そう、短時間、少しだけ調べて、次に来るまでにそれを整理し咀嚼して、と云う通い方が理想なので、そのためには近所に勤められる、と云うのが魅力だったのである。
 だから、国立国会図書館デジタルコレクションが現在のように拡充されたのは誠に有難い。国立国会図書館デジタルコレクションに入っていないもの、国立国会図書館限定公開のものもあるが、しかし十分な量である。出向かなくとも、自宅でぐだぐだしながら気が向いた折に、少しずつ進められる。それでもまぁ、もうそろそろ国立国会図書館に行って色々見ないといけない時期に来ているとは思うのだけれども。
 さて、佐藤歯科医院についても、国立国会図書館デジタルコレクションがなければ日本齒科醫師會 編纂『日本齒科醫籍録』に辿り付いたとして、国立国会図書館でメモもしくは複写を頼まなかったところは後で気になっても、改めて出直して見るしかない。しかし、わざわざ少し気になった程度のことで確認に出向くか如何か。それが今は、気になったらたちどころに確認出来る。――一昨日、記事の組み立てを考えたとき、そして昨日、一昨日の記事に加筆した時点では、佐藤義光と、彼が実家の歯科医院を継ぐまでの繋ぎを務めた歯科医師たちの情報を見るだけで手一杯でそれ以上のことは出来なかったが、佐藤義光の父も、当然これに記載されているはずなのである。
 そこで今日、一昨日桑折町誌』に見付けていた開業年月日をヒントに、その前後を当って見ると日本齒科醫師會 編纂『日本齒科醫籍録』三〇頁2行め「四三六|福島縣|佐藤義男」に逢着した。「生年月|登録月日|資格取得月日及資格」の3項目は字配り通りに抜くと「   年 月|同  年 月 日|同  年 月  」で、殆ど何も書いていないかのようだが、「資格取得月日」は直前の「四三五|東京府|中原庄之助」が「明治三一年一〇月」なので、これと「同」と云うことなのだろう。ところがその伝で行くと「資格取得月日」の後に来るはずの「登録月日」が前になってしまうので、どうもこの辺り、記載に不備があるようだ。ただ番号が少し後になる「四三九|岡山縣|梅谷三次」の「登録月日」が「同(明治)三一年一一月一四日」となっており、これは桑折町誌』に見える佐藤歯科医院開業日の6日後である。そうすると、その直前の機会に資格を取得したと云う見当になりそうだ。
 この見当で誤らないとすれば時期からして、この佐藤義男が桑折町本町の佐藤歯科医院を開業した人物と思われるのである。名前からしても佐藤義光の父らしい。
 さて、この名前だけだと同名異人を含めて大量にヒットしそうだが、そこは時期を絞って検索すれば良い。そうすると、次の雑誌に試験に合格して資格を取得したことが見えていた。
・「齒科學會月報」第七十七號(明治三十年五月發行・齒科學會事務所・六十頁)
 五十四頁上段4行め~五十六頁下段2行め「雜報」5項目のうち2項め、五十四頁下段6行め~五十五頁上段5行め、

   ◯東京に於ける齒科試驗合格者
本年春期に於ける同試驗は同格者總數二十八名/にして本月五日、十二日を以て及第證を授與な/せられたり其姓名は左の如し

として、以下1字半下げで1行に2人ずつ、その20人め、五十五頁上段1行め下に「佐 藤 義 男(福島)」が見える。そうすると資格取得は明治30年(1897)5月と云うことになる。
・『東京齒科醫學專門學校總覽』大正四年十月十七日印刷・大正四年十月二十日發行・實価金拾五錢・東京齒科醫學專門學校・144頁
 123~143頁「第 二 十 四 章 本校關係齒科醫師一覽」123~133頁9行め「1 高山齒科醫學院以降本校入學者ニシテ開業試驗ニ/合格シタル者(自明治二十二年/至 明 治 四 十 年*1)」として多くの名前が列挙される中に、126頁4行め、1行に3人ずつの1人め「死亡   佐 藤 義 男〈福 島/平 民〉」が見える。69~90頁「第 十 七 章 卒  業  生」には見当たらない。この「本校関係歯科医師一覧」に載る人数は「卒業生」の69頁2行め~70頁「1 高山齒科醫學院時代」71~76頁5行め「2 東京齒科醫學院時代」に載る人数よりも遥かに多い。当時は試験に合格して資格を取得してしまえばそれで良いので、卒業は然して重視されていなかった、と云うことなのだろうか。
 それはともかく、佐藤義男は東京歯科医学専門学校(現在の東京歯科大学)の創立直後、高山歯科医学院時代に入学して、在学中の明治30年(1897)5月に歯科試験に合格して資格を取得、卒業はせずに明治31年(1898)11月8日、桑折町本町に佐藤歯科医院を開業、そして大正4年(1915)10月までに死亡、未亡人が昭和5年(1930)に子息・佐藤義光に引き継ぐまで、歯科医専卒業生を雇いながら経営していた、と云うことになりそうだ。
「齒科醫學叢談」高山齒科醫學院
 高山歯科医学院の紀要に当たる雑誌で、国立国会図書館限定公開のためネットでは閲覧出来ないが、佐藤義男の名は次の号に見える。
・1巻2号明治29年1月)27コマめ
・1巻5号明治29年11月)37コマめ
・2巻[3]号明治30年6月)34・36コマ・46コマめ
 5巻1号から改題して、現在に至っている。
「齒科學報」齒科學報社
・7巻3号明治35年3月)22・25コマめ
・8巻3号明治36年3月)13・21コマめ
 前者には「‥‥三、荒川修、桑折町の佐藤義男、梁川の小山市太郞、郡山の齋藤誠一郞、須賀川の大伴直守の六名にし‥‥」とある。
・9巻4号明治37年4月)24コマめ
・10巻6号明治38年5月)33コマめ
・11巻6号明治39年6月)32コマめ
・11巻8号明治39年8月)18コマめ
・11巻9号明治39年9月)25コマめ
・11巻10号明治39年10月)32コマめ
・11巻11号明治39年11月)37コマめ
・12巻3号明治40年3月)44コマめ
・12巻4号明治40年4月)38コマめ
・12巻5号明治40年5月)33コマめ
・12巻6号明治40年6月)44コマめ
・12巻7号明治40年7月)43コマめ「岩代國桑折町本町佐藤義男」
・12巻8号明治40年8月)37コマめ
・13巻2号明治41年2月)29コマめ
・13巻3号明治41年3月)35コマめ
・13巻5号明治41年5月)35コマめ
・14巻4号明治42年4月)43コマめ
・14巻5号明治42年5月)48コマめ
・15巻5号明治43年5月)41コマめ「岩代國桑折町本町佐藤義男」
 やはり国立国会図書館限定公開のため本文は確認出来なかったが、全文検索機能で知り得た断片からしても、佐藤義男は佐藤義光の父で、福島県伊達郡桑折町本町の佐藤歯科医院の初代院長であったことは間違いないものと思われる。そして、歿年は明治43年(1910)と云う見当になるかも知れない。
 いづれ誌面を確認する機会を作ろう。
 今回は全く「竹内久雄書簡」に関係しなかったが、一連の考証になるので一応「祖母の遺品」の題にして置く。(以下続稿)

*1:この括弧内割書。