瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

大和田刑場跡(18)

・刀菊山人「濤江介正近という珍刀」(2)
 昨日の続き。――刀菊山人こと宮崎三代治は以上のような調査結果を引提げて「福永先生」すなわち福永酔剣の意見を徴している。15頁下段5行め~16頁上段15行め、

‥‥、福永先生にお伺いしましたところ、正近には二代/あって初代は奥州白河の産で細川正義の門人、のち現在の八/王子市小比企町に居住していたそうであります。姓は酒井だ/ったそうでありますから、前掲の押形②の銘にあった「長/生」は、姓ではないことになります。
「恐らく長寿の人で、世人から〝長生き濤江介〟と呼ばれて/いたので、〝長生正近〟と切ったのでしょう」【15下】
 とは、福永先生の推察であります。
 二代目は初代の子で、越生に駐鎚したのはこの人と見るべ/きだ、とのことでありました。なお現在は八王子市内になっ/ている高尾山の薬王院に、正近が武蔵太郎安貞と合作して奉/納した三尺近い大太刀が現存するそうであります。それには/安政二年の年紀があるそうです。
「偽物を盛んに作ったので、とうとう討ち首になった、とい/う言い伝えがあります。二代は〝長生き濤江介〟ならば、討/ち首になったとは考えにくいから、初代のことでしょう。越/生に駐鎚したのも、その事件で八王子に居づらくなったの/で、二代目が〝人の噂も七十五日〟と、しばし身を隠したの/ではないでしょうか」
 そう解釈すれば、万事がスムースに納得できます。以上、/福永先生のお話で、正近の身許はたいへん分明になって参り/ました。‥‥


 しかし宮崎氏が尊重して記録している、この福永氏のコメントだが、正直思付きの域を出ないようである。
 すなわち、福永氏は高尾山薬王院に奉納された安政二年(1855)の武蔵太郎安貞と合作した大太刀は「初代」の作と見ているらしい。その初代が「討ち首になった」ので二代目は「八王子に居づらくな」り「〝人の噂も七十五日〟と、しばし」越生に「身を隠したのではない」か、と云うのであるが、その時期は宮崎氏が紹介している①刀の銘に「安政四年二月日」、そして新井雄亮『越生昔がたり』には「安政四年三月日」銘の刀の写真が掲載されている訳だから、安政四年(1857)春に短期間駐鎚したものと見ている訳である。
 しかし、その根拠は「〝長生き濤江介〟ならば、討ち首になったとは考えにくい」でしかない。そもそもその前提の「恐らく長寿の人で、世人から〝長生き濤江介〟と呼ばれていたので、〝長生正近〟と切ったのでしょう」にしてからが、福永氏の想像に過ぎないのである。かつ、初代の刑死後まもなく越生に移ったとするなら、当時の二代目が既に世人に「長生き」と呼ばれるくらいの年齢だったとしても、直前に刑死したばかりの初代がそれより20年かそれ以上の年上のはずで、その直後に二代目が「長生」と名乗ったり世人に「長生き」呼ばわりされたりするとは、到底思えないのである。区別するとすればむしろ初代の方を「長生」と呼ぶことになるだろう。
 初代と二代目がいて、細川正義の弟子、現在の八王子市小比企町在住であったと云った辺りのことは、11月12日付(14)に引いた、村上孝介『刀工下原鍛冶』が利用したのと同じ資料に基づいているのであろう。しかし福永氏も9月発表の本稿の直前、3月に刊行された『刀工下原鍛冶』を参照していなかったらしく、そうでなくても非常に慎重な村上氏に比して、やや軽率に臆断を重ねていると云う印象は否めない*1
 私はと云えば、その後の、村下要助『生きている八王子地方の歴史』後藤安孝「武州下原刀の研究」も参照することにより、村上氏が述べる「正近が繁慶の刀の偽物を作って打ち首になったのを目撃したという」老人たちが「正近に2代あったとは考え」ていなかったと云うのが、いよいよ正しかったと云う印象を受けているのである。仮に二代いたとしても、八王子とその周辺で活動した「正近」は1人であったろう。いや、村上氏が暗示していたように、二代目の存在は疑わしいのではないか。そして越生にいた理由や「長生正近」の意味については、今、無理に解釈する必要もないと思うのである。(以下続稿)

*1:2024年1月15日追記】書名を『武蔵下原鍛冶』と2箇所誤っていたのを訂正。