瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

祖母の蔵書(172)吉田映子①

 𠮷田映子(1937.11.27~1997.1.2)は祖母の長女で、家人の伯母である。平成11年3月21日付「火葬証明書」に拠ると「本籍」は「鳥取県鳥取市材木町XXX番地」でこれは父親、つまり祖母の夫の実家である。「死亡年月日」の「平成9年1月2日午前6時21分」から「平成11年3月19日午前10時00分」火葬執行まで2年余経過しているのは献体したからで、その感謝状等も客間のクローゼット右側にあったが、家人の両親が一昨年の秋祖母の納骨に上京した際に持ち帰ってしまったので写しを作れなかった。
 献体したのは東京女子医科大学看護短期大学の語学の教授だったからで「死亡の場所」は「東京都新宿区河田町8番1号」すなわち東京女子医科大学病院である。
 なお Wikipedia「吉田映子」項は、

吉田 映子(よしだ あきこ、1937年12月27日[1] - 1997年1月2日[2])は、日本の英米文学者、翻訳家。
 
経歴
千葉県出身。別名・吉田昤子。一橋大学大学院社会学研究科修了。東京女子医科大学看護短期大学教授を務めた。

とごく簡略で、続く「翻訳」に24点を挙げて殆ど訳書のリスト状態なのだが、「脚注」は「1.^著作権台帳』/2.^ 『人物物故大年表』」の2点である。すなわち『著作権台帳』を典拠として生年月日を「1937年12月27日」としている訳だが、ここでは「火葬証明書」に「出生年月日」を「昭和12年11月27日」と記載してあるのに従った。
 祖母宅には、①伯母の旧蔵書と、②伯母の訳書、それから③版元から印税代わりに数十冊単位で贈られてきた(或いは買い取った)分は段ボール等に梱包されたまま遺されていた。②は多くは客間のクローゼット右側に納まっていた。伯母の家から持って来たものと伯母が祖母に贈った分とがあるらしかったが個々の事情は分からない。③は伯母の歿後に刊行されたものに限られていて、客間のクローゼット右側にセロファンに包まれた絵本が30冊くらい、それから客間のベッドの後ろに大きな段ボールが2つあった。それ以前のものも同様に送られて来ていただろうが、流石に残っていなかった。
 他に、伯母のノートや日記、通知表なども多く残されていた。ノート類は客間のクローゼット左側1段めの奥に、通知表類は廊下の物入れの右側・下にあった。
 伯母は、縁談もあったのだが断って、研究と翻訳とに打ち込み、将来、人に頼らないつもりで貯金もして、退職後に移住すべく土地も買ってあったのだが、その前に急に発病して死んでしまった。本人は遺産を弟と妹の子供たちに相続させる意向だったが、母親である祖母が引き継いだ方が相続税が少なくて済むと云うので歿後遺族で相談して、伯母に遺志には反するが祖母が一括して相続した。それで、祖母は女学校時代の友人の経営するアパートから、マンションを購入して移ったのである。その際に、伯母の遺品も持って来て、差当り廊下の物入れや客間のクローゼットに仕舞い込んで、そのままになっていたのだろう。
 さて、それを私は持ち帰って来たけれども、まだ整理に着手していない。この中に、或いは履歴書等経歴を語ったものがあるかも知れないけれども。
旺文社文庫『実録裁判』シリーズ
 5点6冊〔646-1~6〕のうち、4冊め〔646-4〕と6冊め〔646-6〕を伯母が担当している。
R・H・ブランデル/R・E・シートン:編『情事 ジャン・ピエール・ヴァキエ事件1981年7月20日 初版発行・定価620円・520頁

※ 帯あり、夏樹静子の推薦文
ダンカン・スミス:編『密会 マドレイン・スミス事件1981年7月20日 初版発行・定価680円・658頁※ 帯あり、澤地久枝の推薦文
 2冊ともに「旺文社注文カード」を挟んだままになっているので、版元から書店を通さずに送られたものである。
 そして2冊ともに最後の頁、『情事』は520頁、『密会』では658頁が「訳者あとがき」になっていて、それぞれその最後に小さく下寄せで、

筆者=一九三七年生まれ。東京外国語大学フランス語科卒業。一橋大学大学院社会/  学研究科博士課程終了。現在、東京女子医大看護短大助教授、一橋大学講師。/  訳書に『皇帝の嗅煙草入れ』『黄色い部屋の謎』(旺文社文庫)などがある。

とある。「終了」は「修了」だろうけれども博士号を取っていたかどうか。しかし差当り Wikipedia の記述を補うものとして、挙げて置こう。(以下続稿)