瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

森満喜子「濤江介正近」拾遺(07)

 昨日の続き。
⑧『新選組青春譜――勇と歳三と総司と
 森氏は昭和47年(1972)刊①『沖田総司哀歌』以来、昭和51年(1976)を除いて毎年1冊ずつ合計7冊、著書を新人物往来社から出し続けていたが、昭和54年(1979)刊⑦『遙かなる沖田総司からしばらく途切れてしまう。
 本書は15年ぶりの新作で、本の作りが色々と変わっている。そしてこの後の2冊、⑨『沖田総司・おもかげ抄』⑩『沖田総司哀歌』はいづれも<新装版>――旧著に全く手を加えずに再刊しただけなので、森氏の新作はこれが最後である。⑨⑩は森氏の死の前年の刊行だが、〈著者略歴〉はごく簡単で住所も記載されなくなっている。よって森氏の自著で、森氏の経歴調査の役に立つ、最新の文献は本書と云うことになる。
 カバー表紙折返し、上部に森氏の写真がある(②のみなし)のは従来通りだが、これまでは、写真の下に文章があって①⑩大内美予子「森 満喜子さんのこと」の他は②「著者のことば」③「著者のことば」④⑨「清澄な明るさをたたえた一生」⑤「扉の言葉*1」⑥「著者の言葉」⑦「著者のことば」と、森氏本人が沖田総司のことを、旅先の光景と絡めて述べたりしていたのであったが、本書にのみそれがなく、縦組みの〈著者略歴〉になっている。2行め、明朝体太字で大きく「森 満喜子(もり・まきこ)」読みは細いゴシック体で小さく添える。これは奥付上部の「著者略歴森満喜子(もり・まきこ)」と相補うようなものになっている。奥付3~5行め、

 本名 大場満喜*2大正13年横浜に生まる。昭和20年/大阪女子医専(現・関西医大)卒・医師。現在,葛飾赤/十字血液センター勤務。


 カバー表紙折返し3~5行めは縦組みで、

一九二四年横浜市生まれ。大阪女子医専(現・関西医大)/卒。大牟田市保健所勤務ののち、現在、葛飾赤十字血/液センター。

とある。Wikipedia「森満喜子」項の典拠であった「大牟田市立図書館」HPの「郷土ゆかりの作家 > 森 満喜子」の「経歴・プロフィール」に「葛飾赤十字血液センター」を挙げているのは、本書に拠っているらしい。
 この、勤務先の葛飾赤十字血液センターについては、「日本赤十字社 東京赤十字血液センター」HPの「▼血液センターについて/▽血液センターの沿革」に「昭和42年/1967年」条に「6月|東京都葛飾赤十字血液センター開設(現東京都赤十字血液センター葛飾出張所)。都内で3番目。」とあり「平成18年/2006年」条に「4月|‥‥。/東京都東赤十字血液センターを東京都赤十字血液センター葛飾出張所に改称 。」とあるが「平成28年/2016年」条に「6月|‥‥。/東京都赤十字血液センター葛飾出張所を東京都赤十字血液センター葛飾事業所に改称。」とあって更に改称されている。JR亀有駅に近い東京都立東部地域病院(東京都葛飾区亀有5丁目14番1号)の裏手の現在地(東京都葛飾区亀有5丁目14番15号)には「平成3年/1991年」条に「7月|‥‥。/東京都葛飾赤十字血液センター新社屋で業務開始。」とあって、本書刊行時、森氏は今の建物に勤務していたことが分かる。それ以前、上京当初から葛飾赤十字血液センターに勤務していたかどうかは、分からない。なお、東京都葛飾区亀有5丁目14番は三共亀有工場跡地で「渋沢社史データベース」の「三共(株)『三共百年史』(2000.05)」に拠ると「昭和53年(1978)」条「4月1日|亀有工場を閉鎖」とあり、その後都有地になって、平成初年に東部地域病院や葛飾赤十字血液センターが建設されたのである。
 それ以上に注意されるのは奥付の方に「本名 大場満喜」とあることで、昭和51年(1976)に大牟田保健所を退職した後に「熊本県荒尾市下井手188 大場医院」を「現住所」としていたのは、容易に想像出来ることではあるが、やはりそういう縁であったのかと腑に落ちるのである。しかし、これも森氏が明確に説明していないから、はっきりしたことは分からない。
 大場医院がいつまで存在したかは2023年12月24日付「森満喜子「濤江介正近」(16)」の【12月25日追記】に「熊本県公報」を引いて明らかにした。いつからあったかだが、不動産情報サイト「アットホーム」に現在この大場医院の建物が「大場貸店舗 1階」として出ていて、「種目|住居付き貸店舗(一括)/所在地|熊本県荒尾市下井手/交通|【バス】九州産交バス・倉掛 停歩1分/築年月|1971年1月(築53年2ヶ月)」とある。間取りと建物内外の写真も見ることが出来るが、当初から病院として建てられたらしいから、最もありそうな筋を述べるとすれば、――森氏は医師の大場氏と結婚して「大場満喜」となっていたが、大場氏は昭和46年(1971)に大場医院を県境に近い熊本県荒尾市下井手に開業、大場氏は大牟田市浄真町から下井手に通ったのか、それとも先に下井手に移って近距離別居していたのか、森氏の仕事や子供の学校などの理由が考えられそうだが、森氏はしばらく下井手に移らずに過ごし、昭和51年(1976)に大牟田保健所を退職して浄真町の家を引き払って、下井手に移った。しかしその後数年で上京している。森氏は結婚して子供がいたことは確かなのだが、本人は夫や子供について何ら語っていない(らしい)ので、森氏が大場医院にどのような形で関わっていた(或いは全く関わらなかった)のか、それから上京を決断した理由、住まいからして単身での上京とは思えないから誰々と上京してその後の大場医院は誰に任せたのか、と云ったことは皆目分からない。
 奥付上部6~10行め、二重鉤括弧は半角~全角の間の幅。

 著書『沖田総司哀歌』『沖田総司抄』『沖田総司幻歌』/『定本沖田総司』『沖田総司落花抄』『小説沖田総司』『遙/かなる沖田総司
 現住所 〒102東京都品川区南品川5丁目16-50エクセ/ルハイツ大井仙台坂XXX


 カバー表紙折返し6~10行め(10行めは下詰め)、

著書『定本沖田総司』『沖田総司哀歌』『沖田総司幻/歌』『遙かなる沖田総司』『沖田総司抄』『小説・沖田総/司』等
現住所 東京都品川区南品川/五―一六―五〇―XXX


 著者は奥付では刊行順に既刊の単著を全て挙げていたが、順序を変え『沖田総司落花抄』のみ抜いている。順序にも意味がありそうである。
 〈著者略歴〉だけで長くなった。これ以外の体裁については、時期の近い⑨⑩と比較しつつ述べることとしよう。(以下続稿)

*1:【3月15日追記】投稿時、本書のみ手許になく所蔵する図書館が長期整理休館中であったため俄に確認出来ず、仮に②③⑦に合わせて「著者のことば」として投稿していた。訂正してお詫び致します。

*2:ルビ「おお ば ま き 」。