瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(367)

 今年も東京の赤マント流言の時期(!)になって来た。森満喜子の著書及び経歴の調査もまだ継続するつもりだけれども、ここで季節の話題(?)に触れて置かねばなるまい。
 さて、まだ私の手許には100件を超える未紹介の資料がある。尤も、85年前の騒ぎを、その直後に、詳細に記録したようなものは殆どない。多くはずっと後年の回想か、流言として広まった後に学校のトイレなどに余喘を保っていた残党(!)などの記憶である。さらにその記憶に松谷みよ子『現代民話考』を加味して小説に使ったものなども、一定の影響力を認めざるを得ないから、一応押さえて置かないといけない。
 しかし、存在を知っただけできちんとメモを取っていないものが殆どだし、投稿出来る状態に整えてあるものは殆どない。
 ただ、まだ『昭和十四年の「赤マント」』出版計画は完全に放棄していないのだけれども、もし実現するとしても大した記事のない文献は年表に挙げるくらいしか出来ないだろうから、そういったものもやはり、売物でない当ブログに、その詳細を紹介して置くしかない。
・關計夫『少國民の心理と文化』昭 和 十 七 年 八 月十五日 初 版 印 刷・昭 和 十 七 年 八 月二十日 初 版 發 行・定 價 金參 圓 八 十 錢・巖松堂書店・六+七+四〇一頁
 大泉溥 監修『〈文献/選集〉教育と保護の心理学 昭和戦前戦中期』第10巻(1997年12月・クレス出版)に影印が収録されているはずであるが未見。
 263頁(頁付なし)扉「第三部 少 國 民 の 文 化」、二六五~三九五頁がその本文で、三七九~三九五頁「第四篇 教 育 畫 劇」は、三七九頁2行め~三八八頁「第一章 紙 芝 居 の 教 育 的 利 用」と三八九~三九五頁「第二章 紙 芝 居 の 調 査」の2章から成ることから分かるように、紙芝居について述べている。
 第一章は「四」節から成るが、三七九頁3行め~三八〇頁8行め「 現   状」に赤マント流言に触れるところがある。三七九頁4行めから節の最後まで抜いて置こう。

 他の兒童文化財に於けると同じく、紙芝居も世間から注目され出したのは、主としてその否定面に於てゞあつ/た。國民學校がまだ小學校と言はれてゐた時分、生徒は學校から歸るや、鞄を放り出して一錢二錢のお小遣をせ/びつて、すぐ樣街頭紙芝居を見に出かけた。そこでは所謂紙芝居の小父さんが小さい子供を集めては面白おかし/く紙芝居を演じ、飴を賣つては子供を手なづけてゐた。そして多くの場合次回への期待を殘しては去つて行く。
 現在この種の紙芝居業者の數は全國で約二萬であり、東京市だけで二千四百名に達する。その觀覽兒童數は東/京のみで一日延人員百萬に上り、又その飴賣上高は同じく東京のみで一日六千圓に達すると言はれる。それはよ/いにせよ惡いにせよ事實である。現在數少き兒童文化機關の中で、之ほど兒童の心身に影響を及ぼすものは存し/ない。紙芝居はその大衆性と娯樂性とに於て、兒童に對する文化施設の中隨一たるの位置を占めるのである。
 曾て東京に赤マント事件なるものがあつた。それは赤いマントを着た人が街路に出沒して、通行人を傷つける/といふ風說であつた。この風說に對して女子供は隨分不安を蒙つた。然るに調査の結果、それは關西の或る紙芝/【三七九】居業者が赤マントの紙芝居を演じたのが誤傳せられたものである事が解つた。假令一時にせよこの事件がかく迄/世間を騒がせた事は、以て紙芝居が如何に兒童大衆に影響あるかを、雄辯に物語ると思ふ。
 併し、現在までの處紙芝居の兒童に對する影響は 殆んど全部好ましからざるものゝみであつた。それは何よ/りも紙芝居業者が專ら飴を賣る事を目的とし、紙芝居を單に客集めの道具に使ふためであつた。紙芝居で賣る飴/が不衞生であるといふ非難は別としても、紙芝居そのものに對して幾多の批判が提出せられてゐる。紙芝居の繪/が色彩强烈であくどい事、說明が下品で方言が多い事、內容が卑わいである事などが、紙芝居に對する難點とし/て擧げられてゐる。その上飴を買ふ者と買はぬ者とでは、取扱ひを異にする場合も少くない。之等の事情は、人/々をして必然的に兒童教育上から、紙芝居に對する或る種の統制を希望する樣にしたのであつた。


 関計夫(1906.3.22~1991.12.13)は、コトバンクの『20世紀日本人名事典』に拠ると東京生れで旧姓牧田、昭和9年(1934)東京文理科大学卒業、昭和14年(1939)東京文理科大学大学院修了、同年東京府青山師範学校の教諭となり昭和18年(1943)官立東京第一師範学校となった同校に昭和20年(1945)まで勤めている。よって赤マント流言の頃、東京にいて騒動を直接見聞きしていたはずなのであるが、3年経ったせいか、どうもぼんやりした説明である。これでは関西の業者が、赤マントの怪人が登場する(が、大して不安を煽るような内容ではない)紙芝居を演じたのが、東京に「通行人を傷つける」という風に「誤」り「伝」えられたことになってしまう。その時期に現地にいたとして、全ての情報に接することが出来る訳ではないから、結局、知り得た情報から合理化することになる。やはり回想は近い時期のものであっても傍証抜きには使えない*1。――実際がどうであったかについては、丁度10年前の今頃、当ブログで加太こうじ『紙芝居昭和史』や「大阪毎日新聞」「大阪朝日新聞」を参照しつつ検討してある。リンクを細かく貼っても参照する人は稀なのでそういう面倒なことは止して、2014年の2月の記事を見て下さいと云って置こう。そして、どなたか版元の方、紙の書籍の形にして見ませんか、と、今更いやらしく提案して見る次第であります。(以下続稿)

*1:その点に注意を払っていない論者がこれまで私を苛立たせて来たし、私が慎重に小出しにしているのは私が提示した資料を、そのような連中に摘み喰いされたくないからである。