瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

Henry Schliemann “La Chine et le Japon au temps présent”(05)

 このことには触れずに置こうかと思ったのだが、私がこれから書こうと思っていたことを詳細に述べているブログを見付けたので、考えを変えて、触れることにした。
 実は、私は平成10年(1998)9月27日付で講談社学術文庫編集部宛にこの本の疑問箇所を指摘した書簡を出したことがあった。その結果は、2箇所だけ、どうしようもなく恥ずかしい誤りが訂正されたにとどまった(ようだ)。尤もこれは、カバー裏表紙折返しの「●読者の皆様へ」に「ご意見・ご感想……がございましたら、……ご教示いただければ幸いでございます。なお、住所・氏名・年齢・職業を、必ず明記してくださるようお願い申し上げます。」とあるのを無視して、匿名で出したためかも知れない。――匿名の指摘を極度に毛嫌いする人もいるが、難癖ならともかく、調べればすぐに分かるレベルの明らかな事実誤認箇所と、常識的に考えて気付くレベルの疑問点の指摘なのだから、「俺が俺が」と名乗りを上げてするまでもあるまいと思っていた。それに、個人的に返答を寄越されても困るし、別に専門家でもないのに問合せられても困る。尤も、ブログがあればネット上に公開したのだが、当時はそんな便利なものはなかったので、編集部にひそかにタレ込んで、対応してもらえればそれで良い、と思っていたのである。
 さて、yoshinogawa3のブログ「備忘録として」で、このシュリーマンの紀行について述べている。2009-09-12「シュリーマン旅行記 清国・日本 ”清国の巻”」及び2009-09-20「シュリーマン旅行記 清国・日本 ”日本の巻”」は、それぞれChinaと日本の記述についての、ブログ「タイトルのまま」*1の備忘録的なまとめ、であったが、それ以降の記事で「イボガシマ」について詳細な考証をしている。
2009-09-21シュリーマン旅行記 清国・日本 ”日本の巻” その2
・2009-09-22「”d’Ivogasima”と二つの硫黄島
・2009-10-15「シュリーマン その2
・2009-10-18「Iwogasima
 これは、全くこのブログの指摘が正しいので、見事な追究に敬服の他はない*2が、講談社学術文庫版(というか元版からなのだが)が有名な「(薩南)硫黄島」を何故か無視して殆ど知られていない「硫黄鳥島」を持ち出したのが間違いなのである。ここで平成10年(1998)9月27日付書簡から第四章の部分を抜いておく。

第四章 江戸上陸(〜99頁)
73〜75頁「イボガシマ」について。
 〔現在の鳥島〕との訳注がありますがこれは誤り。
 75頁の地図にあるように沖縄県の「硫黄鳥島」に当てているようですが、この島の形状は円錐形ではなく標高は「833m」の四分の一くらい(標高212m)しかありません。無人島ですので写真を手軽に見るのは難しいと思います*3。手っ取り早いのは岩波文庫に収録されているベイジル・ホールの航海記に載る絵でしょうか。
 それに6月1日の朝10時にこの島の脇を通りながら正午には「九州本島」に沿っていると云うのは、「硫黄鳥島」からでは物理的に無理です。なお「午後7時にかけて」ずっと「九州本島」に沿っていられるとは思えないので、「正午から午後7時」に見えていた陸地の大半は四国の土佐だろうと思います*4
 それでは、「硫黄鳥島」ではないとしたらこの記述はどう判断すべきでしょうか。
 その名も「硫黄島」と云う適当な候補があります。75頁の地図の「鹿児島」と云う字の「島」の下にある小島がそれです。その形状は円錐形で今でも「大きな上部火口からさかんに噴煙」を吐いています。標高703.7mですから高さの点でもシュリーマンの記述によく合致します(シュリーマンの根拠が何かよく分かりませんが、海上からの測量で誤差を生じたのではないかと考えます)。たぶんこれに間違いないでしょう。
 75頁の航路はもっと直線的に改めるべきです。もちろん本文も訂正すべきと考えます。そう考えることによって、朝6時に見たところの「小さな岩ばかりの島」の比定も可能になります。これは「津倉瀬」ではないかと思います。或いは宇治群島草垣群島中の一島でしょうか。
 なお、硫黄島には1865年の噴火が記録されていないようですが、これはこの火山が常に噴煙を吐いていたため、それが噴火の域に達したとしても日本人(薩摩の人々)の注意を引かなかったのだろう(外国人にとってはまさに奇観ですが)と小生は勝手に考えています。溶岩流出の有無については火山学者の調査が解決してくれるでしょう。
 ついでに述べて置きますと、フォーチュンもこの硫黄島を見ています。44頁です。学術文庫版では省かれていますが底本にある「MAP OF JAPAN and NORTH CHINA(日本および北支の地図)」に「Iwo-sima」と見えています。フォーチュンの記述からも、シュリーマンの見た活火山島が薩南硫黄島であることは確実だと思われます。
76頁4行目「洲崎〔南房総南端〕」
 地図を見れば一目瞭然ですが、これは誤りです。白浜町の野島崎の方が南にあるからです。
 それはそうと「南房総南端」と云う言い方も少々奇妙です。「房総半島南端」でいいのではないでしょうか。やや揚足取り的ですが、宜しくご検討下さい。


 今更、過去の公開されなかった指摘を持ち出すのもどうかと思うのだが、改めて書き直す必要もなくなってしまったので、原文のまま示して置きたい。
 フォーチュン Robert Fortune(1812.9.16〜1880.4.13)に言及しているのは4月2日付(3)でも触れたように当時同時に読んでいたからで、底本というのはロバート・フォーチュン/三宅馨 訳『江戸と北京 ―英国園芸学者の極東紀行―』(昭和四十四年五月十五日初版発行・定価一、二〇〇円・廣川書店・365頁*5)で、裏表紙見返しに「日本および北支の地図」が掲載されている。文庫サイズに地図を収録するのは厄介なのかも知れないが、出来れば省略しないで欲しいと思う。
 ベイジル・ホール Basil Hall(1788.12.31〜1844.9.11)の航海記はベイジル・ホール/春名徹 訳『朝鮮・琉球航海記 ――1816年アマースト使節団とともに――岩波文庫33-439-1)』(1986年7月16日第1刷発行・1988年5月10日第3刷発行・定価550円・岩波書店・385頁)で高校時代に読んでいた。第二章「琉球の島々へ」(89〜182頁)の冒頭に「サルファー島硫黄鳥島〕」と「その火山」の節(89〜91頁)があり、上陸は断念しているが洋上から良く観察している。90頁には図版「サルファー島〔硫黄鳥島.ホールのスケッチによる〕」が掲載されており*6、本文・図版ともにシュリーマンの描写とは全く合致しない。ちなみにSulfur〔英〕とは硫黄だから、「サルファー島」は「硫黄島」なのではあるが。
 yoshinogawa3のブログでは、非常に慎重に、詳細に、私がかつてざっと指摘した問題点について追究をしているが、島の形状、そして移動距離と移動時間の無理などからして、「硫黄鳥島」説はもっとあっさり妄説として切り捨ててしまって良いレベルだと思う。「(薩南)硫黄島」以外の候補は、ちょっと考えられないのだから。

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 今回は過去の書簡を示して置く必要と、yoshinogawa3のブログを紹介したくて予定していた順序を変更して述べた。書簡の全文は、中にはどうでも良い指摘もある(引用中に注で指摘したような、こちらの考え違いもある)ので示す気になれないのだが、内容のいくつかは、今後示して置きたいと思う。(以下続稿)

*1:ブログ「備忘録として」の副題。

*2:ここまでするのであれば、「硫黄島」の古地図・航海記の記録だけでなく「硫黄鳥島」のそれも揃えてあれば、完璧だったと思う。

*3:今は「硫黄鳥島」で画像検索すれば良いのだが。

*4:これは失考。今改めて地図を見るに「九州本島」の大隅から日向沖をずっと航行していた、と考えれば全く問題なく、土佐沖の方が無理である。

*5:このフォーチュンの本も「改版」カテゴリで扱おうかと思う。硫黄島の記述もそのとき確認したい。

*6:近年の写真とあまり変わっていないように見える。