瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

柳田國男『遠野物語』の文庫本(06)

 桑原氏は「共感」や「親密さ」という語を使っていた。「著者」柳田國男と「学問」の対象とを、対等に捉える行き方である。これに対して、吉本氏は『遠野物語』は全て柳田氏が制御した、柳田氏によって統制された作品として、捉えているように、読める。柳田氏の、文学作品であり、思想書なのである。
 どうもこの辺り、ちょっと付いて行きにくい。柳田氏の意志が、あのような文体を選ばしめ、あのような内容を選択せしめた、という訳であるが、それではあまりにも一般の文学作品と同列に見過ぎていやしまいか。それに、語り手である佐々木喜善の話を聞書した柳田氏の手帖類は残っていないらしい。だから119話の選択(及び排列)にどれほど柳田氏の意志があるのか、確かめようがない。若干、佐々木氏を柳田氏に紹介した水野葉舟が報告しているように、当時の佐々木氏の持ちネタのうちで、漏れてしまったものがあるのだが、それが柳田氏が意識して排除したものだか、聞き漏らしだか書き漏らしだかして落としてしまったのかは、分からない*1
 それはともかく、吉本氏の「『遠野物語』の意味」では、この佐々木喜善の存在が全く問題にされていない。しかし、柳田氏は『遠野物語』の聞書を始めた頃(自序によると「昨明治四十二年の二月頃」)、まだ遠野に行ったことがなかった。初めて訪ねたのは自序にあるように「昨年八月の末」であるが、現地で佐々木氏の話に出て来る人物、「佐々木嘉兵衛さんとか吉兵衛さん」や「菊池松之丞さん」などに接触した形跡はない。「此話はすべて」上京していた「遠野の人」佐々木喜善が語ったもので、いわば佐々木氏というフィルタを通して見た遠野なのである。文体は柳田氏のものであり、柳田氏なればこそ『遠野物語』は成立したのだが、吉本氏の視点は、余りにも軽々と佐々木氏という語り手の存在を無視しているように、おもえる。思想書として読もうとし過ぎてしまったからに、ちがいない。

  *  *  *  *  *  *  *  *  *  * 

 以下、瑣末亭主人らしく、個々の疑問点への突っ込みに、移る。その上でまた全体的な疑問点があれば、述べることとしたい。(以下続稿)

*1:水野氏の記述や「拾遺」など佐々木氏の他の著述などから見て、落とされた話がたくさんあったようには思えないのだが。