瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

駒村吉重『君は隅田川に消えたのか』(20)

吉田正三について(5)
 一昨日からの続きで、東京新聞社社会部 編『名人 〈町の伝統に生きる人たち〉105頁16行め~106頁15行めを見て置きましょう。

‥‥。むか/しは、父親の描いた絵馬を、千住から/池袋あたりまで持っていった。【105】
「雑司ケ谷の鬼子母神にも行きました。いま、あの辺がすっかり広い道路に変わりましたが、当時は/ウネウネした小道のわきに石屋や植木屋がチラホラみえるだけの、田舎でしたよ」
 したがって、絵馬も相当に売れていたらしい。戦争のはなやかだった時代は、武運長久の願をかけ/る絵馬があった。無事にガイ戦すればまた、神社へ〝お礼参り〟をして、日の丸と連隊旗をぶっちが/えた図柄の絵馬を奉納したという。
 それが、いまはすっかり注文が減った。とても絵馬だけでは生計を立てることはできない。仕事と/いえば、東京近在の農村で二月の初午(はつうま)に奉納するキツネくらいのものだ。
 もっとも、この初午だけは、まだまだ忙しい。前の年の暮れから描きはじめないと、全部の注文を/さばき切れないほどである。
 このほかに、とくに好事家が頼んでくるものを作る。東京にただ一軒、となれば稀少価値もあって/か、このほうの注文がポツポツ。ふだんの収入は、副業の宣伝ビラに頼るほうが多い。
「絵馬屋というより、宣伝ビラ屋の副業に絵馬をやる、といったほうが手っ取り早いかなあ。絵馬で/神頼み、なんていまの世の中には通用しませんや。自分だけを信じるご時勢ですからね」
 それでも、目の黒いうちは注文がまったくなくなるまで描きつづける、といった。長く俳句をやっ/ている。自分の作が載った句誌をみせてくれた。――「夜の凍(い)てに 描き束ねて 絵馬軽し」


 1行分空けて106頁16行め、下寄せで「東京都足立区千住四ノ六四  」とあります。
 ここに回想される「雑司ケ谷の鬼子母神」に絵馬を持って行ったときのことは、震災前後でしょうか。現在の足立区千住桜木1丁目から荒川区町屋7丁目の間の、御茶屋の渡しで荒川を渡って、町屋か尾久辺りで王子電気軌道に乗って出掛けたものでしょう。絵馬を担いで王子から池袋を通って、延々歩いて行ったようにも読めます。――「ガイ戦」は漢字制限で「凱」が使用出来なくなったために「ガイ」としたのでしょうが正しくは「凱旋」です。
 俳句のことは、2011年9月1日付(15)に触れた小野忠重『ガラス絵と泥絵』に見えていました。昭和43年(1968)に『千住』と云う句集を出しているのですが、これは本名の吉田政造では検索してもヒットしません。都内の公立図書館では足立区立中央図書館と東京都立多摩図書館に所蔵されています。国立国会図書館デジタルコレクションでも閲覧出来るのですが「国立国会図書館/図書館送信限定」です。足立区立中央図書館の蔵書は貸出可なのですが、区内に在住在勤在学か、都内或いは隣接する埼玉県の3市在住でないと足立区立図書館の貸出券を作れないので、都下在住の私には縁のない話です。思えば私は足立区にも行ったことがあったかどうか、しかし世間が落ち着いたら千住に出掛けて吉田絵馬屋に行き、それから足立区立中央図書館2階の、足立区ゆかりの図書を集めた特色コーナー(開架)にて『千住』を手にすることが出来るはずですので、気長にその機会を待つこととしましょう。それこそ、私は都電荒川線を全線通して乗ったことがないので早稲田停留所から鬼子母神前を経て三ノ輪橋停留所まで乗って街道を、千住大橋を渡って少し旅人のような気分になって歩いて見たいものです。――尤も、別の区の図書館でしたが、やはり貸出券が作れないので、休日に時間に余裕を持って出掛けて行ったら目当ての本が貸出中だったり、酷いときには漏水でたまたま部分休館になっていて書棚は見えているのに手にすることが出来ず虚しく帰って来た、などと云うこともありました。
 それはともかく、「俳句」17巻11号(昭和43年11月・角川書店)の「書評」に、156~158頁、能村登四郎「絵馬寿句集『千住』――絵馬づくりの歌」があります。こちらは国立国会図書館デジタルコレクションの「国立国会図書館限定」公開ですが、何とか見る機会を作りたいものです。(以下続稿)