瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

四代目桂文團治の録音(1)

・ビクター落語上方篇

ビクター落語上方編 四代目 桂文團治(1)らくだ/帯久

ビクター落語上方編 四代目 桂文團治(1)らくだ/帯久

 上方落語は、上方にいた頃には殆ど聞かなかった。当時は大阪に寄席もなく、あったとしても10代だったから行かなかったろう。当時私は殆ど現金を持っていなかった。大阪に出るのも年に2〜3度だった。上京して後、『桂米朝上方落語大全集』のカセットテープが、大学から近いことはないのだが、散歩がてら守備範囲にしている区立図書館の2館(同じ区ではない)に所蔵されていて、これを高校時代までは持っていなかったラジカセを父から譲り受けたのを機に、就寝時に聞くようになった。私はなかなか眠れない性質で、それで大学時代は深夜番組を見るともなしに風呂上がりの身体の火照りが収まるまで2時間も見ていたのである。
 東京落語を聞かなかったのは、噺家が多くて誰が良いのか分からなかったためで、上方落語は今は東京の図書館にCDも増えたけれども、当時は桂米朝(1925.11.6生)のシリーズがあるか、ないかだった。ちょうど『特選!!米朝落語全集』が続刊されているところで、そのうちに枝雀のCDも出たと思うけれども、人情噺の少ない上方落語は昔話好きの私には合っていた。そのうち、地方に就職する友人に馬鹿デカいCDラジカセを譲ってもらい、それからは『特選!!米朝落語全集』のCDを借りて来てダビングして聞いた。一頃、カセットテープが2つ操作出来るようなラジカセが流行って、そういうのだったらカセットテープのダビングも出来たのだが、かつて父にもらったラジカセはカセットテープが1つしか入らない安物で、このとき友人にもらったCDラジカセはカセットテープのプレイヤーは初めから1つしかなかったので、結局カセットテープの『桂米朝上方落語大全集』からはダビング出来ず、そのうち所蔵する図書館の近所に行く用事がなくなったため、以来、殆ど『桂米朝上方落語大全集』を聞く機会はなくなって、先年CDになったけれどもやはり聞く機会がないままであるが、それでも恐ろしいもので、20歳前後に毎夜聞いたカセットテープの方の内容が刷り込まれていて、年齢的な衰えと、客たちも古い大阪の習俗に昧くなっていることを窺わせる『特選!!米朝落語全集』には(中には良くなっているものもあるのだが)、未だにどうも、違和感を覚えてしまうのである。
 それから、年末に上野の鈴本でやっていた米朝独演会を毎年聞きに行くようになった。7年くらい行ったと思う。米朝一門会にも1度行き、桂枝雀(1939.8.13〜1999.4.19)を1度だけ見ている。当時の私は、勉強のために聞いているつもりだったので、枝雀の藝にお金を払う余裕はなく、専ら古い藝ということで米朝ばかりを目掛けていたのだが、そのうち枝雀は出なくなって、もう10年以上前だから記憶が全くないのだけれども、とにかくその頃に年末の鈴本には行かなくなった。
 大学院の後輩に枝雀のファンがいて、米朝独演会の券を買いに行くついでに、その後輩に頼まれて、というか、多分私の方から行く人があれば買って置くから、と言い出して、それでその後輩の券を買ったのだが、私の買った米朝独演会が客席の後ろの方で3500円取られたのに、枝雀独演会の方は客席が売り切れて、補助席になっていたのだが、随分前の方なのに2500円なのである。詰め込みたいのは分からなくもないが、大して座り心地の良い訳でもない、補助席の折畳椅子よりマシだとも思えない客席の後ろの方で、1000円高いなんてふざけている、と憤慨したものだった。――それは、出なくなる直前か、もう1年前だったかの枝雀独演会で、詳しい話は聞かなかったがとにかくハイテンションだったそうで、後輩は大いに満足していた。……そんなことも思い出す。
 米朝独演会には友人や叔父夫婦を伴って行ったこともある。たまにしくじるのだが、そこは後で不自然さが残らないように巧く誤魔化すのである。それで叔父夫婦が満足しているのに、その後で入った御徒町駅前の飲食店で、私が「あそこでしくじったのを、あそこで巧く誤魔化した」などと要らぬ講釈をしたものだから、気を悪くさせてしまったこともあった。けれども、綻びが目立つようになったとは言え、流石に上手いもので「立ち切れ線香」の若旦那の述懐からサゲまでの客席の静寂、まさに水を打ったような静けさで、サゲるまで息苦しくなるようであった。(以下続稿)