瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

「はじまりは国芳−江戸スピリットのゆくえ」(1)

 昨年は美術館に殆ど行かなかった。「藤牧義夫展」に前期・後期に足を運んだくらいか。かつては面白そうな東京近辺の特別展に出掛けては図録を買ったものだが、今では美術館の閲覧室で見れば良い、という気分で執着がなくなって来た。最近の図録は小ぶりで高くなった。しかし美術館に行かないんだから閲覧室にも行かないのである。いや、図録を閲覧室で見るくらいなら会期中に展示室で実物を見れば良いのだけれども。
 それから、歳のせいか展示室でいらいらするのである。若い頃は疲労したが、あまり疲れなくなった。久しく人がたかる展示を見ていないからそんな気がするのかも知れぬ。それはそうと、いらいらする原因だが、展示の説明を読んでしまうことにある。

はじまりは国芳―江戸スピリットのゆくえ

はじまりは国芳―江戸スピリットのゆくえ

 先日横浜美術館で見た「はじまりは国芳」展でも、いくつか気になる説明があった。図録の書影を示したが、美術館では品切れとのことで、入手していない。たぶん、買わない。展示の出口に見本があって、その脇に一般書店でも購入出来るのでそちらで入手するようにというチラシが積んであって、だから見本を見ただけである。PDFで出品作品リストが公開されているが、私は前期には行けなかった。こんなに入替があったのなら前期も見たかったが、仕方がない。
 この展示は副題「江戸スピリットのゆくえ」が示すように、国芳の画系の近代以降の展開がむしろメインで、新版画や油彩画、日本画の大作を堪能したが、浮世絵の方は、なまじ江戸時代の文学を専攻してしまったのでいろいろ気になって仕方がないのだ。横浜美術館が特にそうだという訳ではないと思うが、どうも文字の処理がおかしいのである。
 2011年1月8日付2011年7月24日付で指摘したように、研究者やその時代の資料を(一時的にもせよ)集中して読んだはずの人でも、怪しい場合が少なくない。私の知人には江戸時代の美術を専攻した人はいないので、美術史の人がどんな教育を受けているのか知らないが、落款や画賛・絵師の書簡の文字も読まなきゃいけないんだからやはり崩し字が読めるようになっているはずだと思う。のだけれども、ちょいちょいおかしい。それで、気になって文字を全て読んでしまう。だから、連れでもいれば流石に遠慮して流すが、大抵1人だから、下手をすると作品よりも説明パネルを読んでいる時間も方が長いかも知れない。いや、流石にそんなことはないか。

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 企画展の展示室に入ってすぐ、まずは歌川国芳「通俗水滸伝豪傑百八人之一個」の揃物のうち2点が並んでいた。私が見たのは後期だから出品作品リストの2「扈三娘一丈青」と4「旱地忽律朱貴」である。説明パネルにはシリーズ名の読み(振仮名)が「つうぞくすいこでんひやくはちにんのひとり」となっていたのだが、図にあるシリーズ名とその振仮名を読むに、2には「水滸傳豪傑百八人之一個(すいこでんがうけつ・いちにん)」とあるが、4は「〈通/俗〉水滸傳豪傑百八人之一個(すいこでんかうけつひやくはちにんのひとり)」とある。
 シリーズ名が統一されていないことも多いから、そこは統一するべきで、それでこうなっているので、別に問題にすべきところではない*1とは思うのだけれども、こんなことが、なんだか気になるのである。それで、今回もやはり気をつけて時間を掛けてパネルを読んで行くうちに、いくつか気になる説明に出くわしたのである。(以下続稿)

*1:濁点の有無も問題ではない。濁点がなくても昔の人は勝手に補って読んだのである。