瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(106)

・大阪附近の赤マント(2)
 2月4日付(104)に引き続いて、大阪の赤マントについて触れている資料を挙げて見ましょう。
・『すずきとし昭和のこども250景』
 平成7年10月26日印刷・平成7年11月1日発行・定価1,800円・朋興社(大阪)・260頁・A5横判並製本、奥付に「遠藤章弘 編纂」とあります。
 用紙はアート紙で表紙のみカラー印刷。
 1頁(頁付なし)扉、2頁(頁付なし)の右下に横組み明朝体

オリジナルは『昭和こども風土記』として、昭和52年6/月〜54年3月まで読売新聞都市圏版に連載。昭和55年8/月に作品をセレクトして小社より刊行。本書では新たに/作品50葉を加えると共に内容を一新した。

とあります。出来れば新聞掲載のものや本書の前身である『昭和こども風土記』に「赤マント」が掲載されているのか、確かめて置きたかったのですけれども、何時になるか分からないので先に本書によって紹介を済ませて置こうと思ったのです。
 3〜4頁は「平成7年10月吉日」付のすずきとし「全身で遊び、全身で生きたこどもたち」は横組みで左右2列、以下奥付まで文字はゴシック体。なお「目次」には「まえがき・すずきとし……3」とあります。
 5〜9頁「目 次」、左中右の3列。
 10〜259頁が本編で1頁に1項、2項ある頁もありますが、目次には1項のみを示しています*1。259頁「ダッコちゃんブーム」が一番新しく、大体年代順に配列されています。
 260頁に左に「資料提供者(五十音順・敬称略)」として69名の氏名を4列に列挙、右に略伝、冒頭部を引いてみましょう。

すずき とし
本名鈴木稔。昭和6年東京日本橋生まれ。同/9年大阪へ移住、大阪市芦池尋常高等小学校、/府立今宮中学(現今宮高校)を経て、映画広/告・デザイン・アニメーション・印刷会社美/術制作部門に携わり、現在漫画家、イラスト/レーターとして活躍中。‥‥


 その次に奥付、最後に広告が3頁。
 93頁に「赤マントの正体は?」と題して、イラストは男児と女児を前に、靄のようなマントを翻す、角の2本突き出た目だけを出した覆面の男で、元来はカラーだったのでしょう。次のような説明があります。

昭和15年頃。関西一円に赤マントが小学校のトイ/レに出没するとのうわさが広がり、ちびっ子たち/を震えあがらせた。正体は不明。当時、紙芝居で/黄金バットなど「マントもの」が人気を呼んでい/たが、その影響があったかも知れない。


 イラストはすずき氏のイメージで、自身の体験に基づいているのでしょうけれども「関西一円」というのは、新聞連載を見て寄せられた、260頁「資料提供者」からの手紙などの情報も加味されているのでしょうか。初出との比較をして置きたいところですし、もし寄せられた手紙などが現存しているのであれば、何とかならないか、とも思ってしまいます。それから、ここの記述ももう少し、トイレに出現して何をするのかも、示して欲しかったところです。
 ちなみに90頁に「昭和13年7月、‥‥」に始まる「阪神風水害の鉄砲水」、91頁に「昭和14年3月、‥‥」に始まる「火薬庫大爆発」があり、東京では昭和14年2月だった訳ですが、大阪ではそれよりも後に配置される訳です。時期は、昭和15年(1940)ではなく昭和14年(1939)とすべきなのですけれども。(以下続稿)
2020年11月26日追記】オリジナルの『昭和こども風土記』の書影を示すことが出来ました。

 なんと、上記「赤マントの正体は?」と同じカラーイラストが表紙を飾っております。すずき氏は昭和6年度生だとすれば昭和13年(1938)4月に、現在の大阪市中央区南船場3丁目7番にあった大阪市芦池尋常高等小学校に入学、昭和14年には2年生、昭和15年には3年生、早生れで昭和5年度生だとすれば1学年上で昭和12年(1937)4月入学となりますから、小学生時代に大阪の中心部で赤マント流言を体験していることは間違いありません。

*1:23頁の2項め「ニッケイ」は目次になし。