瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

柳田國男『遠野物語』(03)

 2011年6月12日付(02)の続きで、2011年6月14日に書いてそのままにしていたのだが、もうそろそろ続きを書きたいと思って、本文には手を加えずに、補足・修正は注に【追記】として上げて置くこととした。

  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 明治41年(1908)から翌年にかけての聞書に「年老いて子無く、近き頃病みて失せたり」とあるので、この話が「新しい話である」とはとても思えない。数えで七歳の女の子が「年老いて」というのだから、50年は前、それこそ嘉永年間(1848〜1854)かそれより前、とにかく江戸時代のこととしか思われない。
 ところで、この「毒キノコ」の一件が起こる少し前に、この山口孫左衛門の家を立ち去るザシキワラシが目撃されている。すなわち『遠野物語一八話に以下のように見える。

……、或年同じ村の何某と云ふ男、町より歸るとて留場*1の橋のほとりにて見馴れざる二人のよき娘に逢へり。物思はしき樣子にて此方へ來る。お前たちはどこから來たと問へば、おら山口の孫左衞門が處から來たと答ふ。此から何處へ行くのかと聞けば、それの村の何某が家にと答ふ。その何某は稍離れたる村にて今も立派に暮せる豪農なり。さては孫左衞門が世も末だなと思ひしが、それより久しからずして、……*2


 『遠野物語』の話者佐々木喜善は後年、ザシキワラシの資料を『奥州のザシキワラシの話(爐邊叢書)』(大正九年二月・玄文社)に纏めており、この話も当然再録されているのだが、そこでは暈かされていたザシキワラシの行先が明示されている。しかし気になるのは、「実話として伝うるもの*3」ではなく「物語化したるもの*4」に分類されていることだ。佐々木氏がこの「家の盛衰」を明治36年(1903)のような「新しい話」と捉えていないことは明らかである。(以下続稿)

*1:振仮名トメバ。

*2:以下6月12日付(02)に引用。

*3:追記】草稿には「二」とあったが中公文庫版『遠野のザシキワラシとオシラサマ』所収「奥州のザシキワラシの話」を参照して改める。

*4:追記】草稿には「三」とあるが中公文庫版『遠野のザシキワラシとオシラサマ』所収「奥州のザシキワラシの話」を参照して改めた。