瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

中島京子『小さいおうち』(15)

・布宮タキの親族(3)
 甥の一家だが、健史は次男だから、長男がいるはずで、全く出て来ないから家を出ているのであろう。それから、第二章11「昨年嫁にいった娘」がいる。長男と長女のどちかが年上かは不明。
 それから6月16日付(13)で触れたタキの2人の姉についてだが、第一章3、単行本頁行め・文庫版11頁15〜16行め「きょうだい六人のうち、上四人はすべてどこかへ奉公していた」が「年の近い姉のタミは近隣のお大尽の家に行かされて、‥‥*1」とあって、兄弟のうちだだ1人名前が判明しているが、軍治の母親かどうかは分からない。

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 ここで、タキの性格について見て置こう。
 女中としての布宮タキは主人に可愛がられる存在であった。
 第一章1、何年前のことか分からないが「渡辺家を最後に‥‥茨城の田舎に引っ込」むまで、タキは他家の家事労働を引き受けていた。そして「二年ほどまえに『タキおばあちゃんのスーパー家事ブック』という本」を「出版社にお勤めの渡辺のお嬢様」の「熱心」な「紹介」により「出し」ている。タキの回想ノートの執筆時期が平成15年(2003)秋から平成16年(2004)春に掛けてとして、タキの著書は平成13年(2001)に刊行されたことになる。
 それから第六章5、「小学校を|卒業して初めて奉公に上がった家」の「偉い、小説家の先生である」小中先生に「大東亜会館に行った帰り」に「日比谷」で再会して、「久しぶりの冨士アイス」でしばらく話す場面に、単行本208頁11〜12行め・文庫版225頁5〜6行め

「お前、よく覚えてるね。そうだ、タキちゃんは昔から、頭が良かった。うちへ入った|女中のう/ちで、いちばん頭が良かった。手放すんじゃなかったな」


 ちなみに、タキが小中先生に再会したのは昭和17年(1942)のことで、第六章5、「四月」18日(土)の「ドゥーリットル空襲」から6月15日(月)の最後の「東京市議会選挙」の間のことである。小中先生についてはノートの最初の方に、第一章5「小中先生が亡くなって、もう六十年になろうとしている」とある。ノート執筆1年めを平成15年(2003)とすると、小中先生は昭和19年(1944)以降、終戦前後に死亡したことになろう。
 それはともかく、同じようなことを第一章5、小中家に奉公していたときにも言われている。単行本14頁14〜16行め・文庫版17頁9〜11行め、

「タキちゃんは頭がいいんだね。ある種の頭の良さを持っているんだ。それは学校で勉|強ができ/たり、学者になったりする頭の良さとは違うんだけれど、とっても重要なこと|なんだよ。タキち/ゃんみたいに、人様のために働く仕事をする人にとってはね」


 もちろんヒロインの平井時子にも、その旦那様にも可愛がられている。その理由はこの「ある種の頭の良さ」にあるのだ。
 ところが健史や「女性編集者」には、明らかにこれが発揮されていない。
 健史は孫みたいものだし、明らかにスカタンなことを言っているので、侮られても仕方がないが、「女性編集者」に対する態度は如何なものか。自分の対している人間が、どういうつもりで接触して来ているのか、その意図を察するということが、まるで出来ていない。
 健史は親類だからノートにあれこれ書かれても気を遣ったり反省したりもしないが、女性編集者はこのノートを見たら気を悪くするだろう。だから第一章4、「わたしの言うことをテープにとって欲しいのだ」と要求したのだろうけれども。
 とにかくタキは、「だいぶ売れた」家事読本に続く「タキおばあちゃん」シリーズ(とは書いていないが)第2弾を要求されたから書こうとしているので、もちろん自分が優位に立っているつもりなのである。そこで自分の意見を通そうと注文を出すのだが、第一章2、実用的な家事読本の次に「季節の折々に、タキさんの感じられたこと」や「なつかしい東京のお話」などの軽い読物を期待していた編集者としては、タキが提案した「自分史」が受けるのか受けないのか未知数である以上、わざわざ茨城まで身を乗り出して、一から共同作業を続ける気持ちになれないのは、当然のことである。
 それに、編集の手間も一通りでない。音声で記録した老婆の話を文字起しするのだ。家事と限定されていれば見当も付けやすいが、内容が内容だけに滑舌が良かったとしても文字起しは容易でない。第一章4、本人が「お話しできることをすべて話すからテープに録音して欲しい」では編集の手間は並一通りでない。2時間ドラマの素人探偵のように仕事そっちのけでどう転ぶか分からない作業にかまけるわけには行かないので、一応完成させたものを本人から出してもらった上でないと、企画の通しようもないだろう。
 もちろん、作者が、小中先生による賞賛と女性編集者への偏屈な意見とを並べて示したのは、意図があってのことであろう。柔軟だったタキが偏屈になって引き籠もってしまうに至るのは、時子奥様に纏わる「秘密」がタキの胸に棘のように突き刺さっていて、早くに死んだ時子奥様への思入れが美化・理想化へと繋がり、それが現実への苛立ちと非適応として表面化する……と云った落差を、全く自覚しないまま主人公が提示してしまっていることを、見せ付けている訳だ。
 けれどもここで、ノートにこれが並べて記されているのを読んでいるはずの人物がいることが、気になって仕方がないのだ。――そう。健史は、頓痴奇な歴史観を延々披瀝し続けて延々悪口(?)を書かれるくらいなら、むしろこの女性編集者に対するタキの無理解の方をこそ、たしなめるべきだったのではないか。女性編集者について繰り返し示される、タキの虚しい期待とズレている不満とを度々読まされて、何とも思わないのだろうか。私なら、タキが何だか可哀想でならなくなる。……歴史認識(?)については引き下がっていないから、頑迷なタキに遠慮して、黙っていたとも思われない。
 とにかくタキのノートの段階では、タキの体感した“時代”に対し戦前暗黒史観を持ち出して見せることで、タキの尚古思想(?)を強調して見せる役回りしか、健史はしていない。もう少し健史には登場人物としての仕事が出来たはずだ。その辺り、如何にも人物造型が薄いのだ。――妻夫木氏なら、似合っているような気がするのだけれども。……恐るべし山田洋次。まだ見てないけど。(以下続稿)

*1:ルビ「だいじん」。