瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

中島京子『小さいおうち』(22)

 健史という人物について、どうにも腑に落ちない思いを黙し難く、あれこれ書いてしまったが、少し後悔している。
 小説の世界の主宰者たる作者がこう書いている以上、読者として健史の造型にどんなに不自然さを感じようが、健史はこういう人物にしかならない。結局は好き嫌いの問題に近くなる。だから、あまり踏み込んだことは云わないつもりであった。
 Amazonやブログなどに批判的なレビューを上げている人の中には、健史の左翼的な歴史観への違和感を表明している人がいるが、そこは突っ込むところではない。登場人物たちが「自分史」や「事変」に突っ込んでいるのと同じことになってしまう。それこそ高校日本史の知識しかない健史と、女中でしかなかったタキの“歴史認識”など、ステレオタイプで論ずるに値しない。そうではなくて、タキの生前も、そして没後4年を経ても相変わらず健史のタキに対する姿勢が「これでは話にもならない」ような按配のままであるらしいことに、何だかもやもやするのだ。
 しかしこれも、本文にこう書かれている以上、従うしかない。読者としての私の評価の問題は、また別である。
 ただ、批評を書こうとは思っていない。飽くまでも書いてある内容について、検討して見たいのである。
 ところで、レビューでは、タキの性格の悪さや文章の品の無さに対する違和感を表明している人も決して少なくないのだが、これは、成り行きでこんな程度の人物造型になってしまったのかも知れない健史とは違って、作者は初めから狙って書いているとしか思えない。とにかく本文がこうなっているのだから、読者としてはそれに従って解釈して置くしかない。それでも「いらいら」もしくは「もやもや」してしまう、だからあれこれと書いてしまったのだけれども。

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・平井恭一の年齢
 6月14日付(11)の続きで、以後の展開を、時期の分かる記述を抜きながらざっと見て置こう。
 第二章1、「昭和十一年」にタキは時子に「来年から夜間女学校に行」くよう勧められる。「学費が無料」の「一年制のところ」である。それは「恭一も来年から小学校なんだし、ちょうどいいじゃない」という訳なのであった。しかしながら、この話は立ち消えになる。単行本43頁10〜11行め・文庫版48頁12〜13行め、

 ところがその年の暮れに、恭一ぼっちゃんが高熱を出して、一週間ほど寝込み、熱|が引くと今/度は足が動かなくなった。


 第二章2、恭一の病気は「小児麻痺」で、タキは「小中先生」の許で「小耳に挟ん」でいた、「日本橋」で開業している「小児麻痺の名医」に、「小中先生の立派な紹介状を持って」連れて行き、「正月休みが近い」ので「今後はお前がするようにと」のことで「マッサージの方法を伝授」されて、昭和12年(1937)は「ひたすらぼっちゃんの脚を撫でて過ご」すことになる。単行本45頁15行め〜46頁2行め・文庫版50頁18行め〜51頁5行め、

 恭一ぼっちゃんは小学校入学を一年遅らせることになった。お医者様がおっしゃるに|は、一年/待てばかなり快復するような話だったので、奥様は、それならいっそのこと家|で治療に専念させ/ようと考えられたのだ。
 平井家におけるわたしの重要度は、この一件でたいへん高まったように思う。奥様と|わたしの/絆も深まり、ご実家でも、社長さんの家でも、どこへ行くにもごいっしょする|ようになった。ぼ/っちゃんをおぶって差し上げなければならないという事情もあった。


 「ご実家」のことは後日、追って少し疑念を述べて置きたい。
 「社長さん」というのは第二章3、「旦那様」つまり時子の夫が昭和「十二年の春」の「事業の拡大に伴って」昇進して「常務」を務める玩具会社の社長である。
 この第二章3には時子の「女学校友達の睦子さん」が登場する。「女学校を出てから目白の女子大に進み、その後出版社」に勤めて雑誌『主婦之華』の記者をしていた睦子は、「あのころはヘレン・ケラー女史の来日」を取材して記事を書いているところであった。ヘレン・ケラー(1880.6.27〜1968.6.1)の来日は昭和12年(1937)4月15日で8月10日に離日している。恭一に「小児麻痺は努力すれば治ります。ケラー女史の苦難を思いなさい」と「会えば説教する」ので「七歳になった恭一ぼっちゃんは、ケラー女史が大嫌い」になってしまう。
 恭一の年齢については6月3日付(02)及び6月5日付(04)で確認して置いたが、やはり昭和12年度の1学期中に誕生日を迎えて満「七歳になった」ものと判断されるのである。(以下続稿)

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 そういえば、コロンビアが2位狙いで手を抜いて来るかも知れないから、日本に勝機がある、などと言う人が知人の職場やネット掲示板などに現れて、しかし最終戦を残して1次リーグ・グループC*1の4チームが勝ち点6のコロンビアと、勝ち点3のコートジボアールと、勝ち点1のギリシャと日本であって見れば、確かに最終戦を終えてコロンビアが2位になる可能性はあるけれども、その場合1位になるのはコートジボアール以外に有り得ない(ともに勝ち点6で得失点差)ので、それではいくら手を抜いてもらって日本が勝たせてもらったところで、何の意味もない。それに、ギリシャだってコートジボアールに勝てば、日本がコロンビアに順当に(?)負ければ決勝トーナメントに進出出来るのだから、コロンビアがいくら2位になりたくとも、日本に負けさえすればそれで2位になれるというものでもない。死に物狂いになって戦う必要もないが、手を抜く理由もないのである。
 しかし、大真面目にこんな見通しを述べる人が少なからずいたのである。だからこそ、注意しないといけないと思う。実際、馬鹿馬鹿しくなるくらい理屈に合っていないことでも、何だか本当らしく思えてしまうことがある。オレオレ詐欺改め振込め詐欺改め母さん助けて詐欺のように、うかうかとそうであるような考えにさせられてしまうところがあって、それは小説の場合、作者がそう書いているから読者も普通は辻褄があっていると予測して読むので、辻褄が合っていなくても書いている作者が気付かないくらいなんだから、読者がそれに気付かなくても仕方がない。合うか合わないか考えながら読まないと気が済まない私如きでも、実は初めに読んだときにやり過ごして、後であれこれと細かく確認して見て気付くことが少なくないのである。

*1:サッカーの2014FIFAワールドカップ(第20回・ブラジル大会)。