瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

中島京子『小さいおうち』(23)

 昨日書いたコロンビア2位通過云々について、今日改めて人に聞いてみたら「ネタだろ」と一蹴された。
 そうでなかった人もいただろうと思うのだけれども、むしろそうでなかった人でないと口にしなかったろうと思うのだけれども、事実は小説より奇なり。――「ネタ」ということでは、小説の場合、読者に誤った理解をさせるようなことを書くことが良くある訳だけれども、一方で作者本人も何か錯覚して誤ったことを書いてしまうこともあるので、こういうのが入り混じっていると、作者がわざと書いているのか、単にボケてしまっただけなのか、判別が難しい。いや、判別せずとも全てひっくるめて“作品”ということになるのだろうけれども。
花子とアンラヴェルムソルグスキー
 今日の連続テレビ小説花子とアン」で、カフェ「ドミンゴ」にラヴェル(1875.3.7〜1937.12.28)編曲のムソルグスキー(1839〜1881)「展覧会の絵」の「鶏の足の上に建つ小屋−バーバ・ヤガー」が流れていたが、ラヴェル編曲の管弦楽版は大正11年(1922)10月初演、ドラマの中の時間は大正8年(1919)のはずだからアナクロニズムである。レコードは昭和5年(1930)録音のものが最古なので更に時代が下がる。

 これが初録音らしい。新しい録音とは、ちょっと趣が違う。
 管弦楽版にはラヴェル編曲に先行するものもあるから、そのレコードなのかも知れないが、しかし当時のレコードにしては音がクリアである。店内に流れている音楽ではなくて、登場人物たちには聞こえていない“ドラマのBGM”なのだろうか。けれども主人公とその妹が店に入るや鳴り出したから、やはり店内に流れている音楽という扱いなのだろうと思う。
 こんなことを気にする人はたぶんそんなにいない*1ので、それに当時の録音で、しかも日本で聞くことの出来たものという条件で探すと、かなり限定されてしまう。しかしながら、その窮屈さも含めて、“大正”という時代なのではないだろうか。
 このことは本書に選択されている数々の“小道具”についても言えることだろう。「花子とアン」の“小道具”にこれ以外にも時代錯誤があるのかないのか、そこまで注意して見ていないが、本書はそれで“戦前”という時代を表現しようとしているので、単行本に附されたAmazonレビュー(文庫版でも表示される)にもあるように、2010/9/23「☆☆☆☆ 舞台設定だけでいっぱいいっぱいだった?」という印象を与えるくらいなのである。直木賞に興味のない私が本書を手にしたのは2013年12月21日付「赤いマント(61)」に述べたように、「赤マント」で検索しているうちにfujiponのブログ「琥珀色の戯言」に辿り着いたからだったのだけれども、その記事、2010-07-24「小さいおうち」でも同じような指摘がなされている*2
 だから、本書の場合、舞台設定にはブレがあってはいけないので、そこに問題があると思ったからこそ、私は通読して確認しようと思ったのだった。けれども、人によっては気にしない、気にする方がおかしいと思われるかも知れない。難しいところである。(以下続稿)

*1:twitterで真空亭という人が放送直後に「当時の録音技術からすると妙に音がいい」上にラヴェル編曲版が1922年であることを指摘し「流行の先端を行きすぎ」と突っ込んでいるのに気付いた。瞬発力ではtwitterには敵わない。

*2:最新記事、2014-06-26「【読書感想】他人を攻撃せずにはいられない人」は、……気を付けないといけない。まぁ私の方が「周囲からはまともに取り合ってもらえ」ないことになろうけれども。