瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

河本正義『覗き眼鏡の口上歌』(3)

 昨日の続き。
 他にもネット上からいろいろな情報を得られるのだが、それらは昨日挙げたものと違って「旅と伝説」などを閲覧することでより確実になる種類のものなので、実際にそれら掲載誌を見た上で報告することとして、今日は、上氏が「解説」で明らかにしたことを挙げて置こう。13頁8〜13行め、

 わたしの手許にはたまたま河本正義編『播磨童謡鈔』(昭和九年・兵庫県民俗研究会)という謄写版刷/りの小册があるが、その「はしがき」のなかで河本は、「播磨は我が父の国であり、我が母の国であ/り、少年の日の幾年かを私もこの地で成長してきた」と記している。彼が播磨の人であることは明/らかで、わらべ唄は「母、伯母、姉からの聞書や、中学時代の友人の手を経て集めた」ほか。「私が/女学校の教職についてから、女学生に蒐集を依頼し、集ったものを加へて、この童謡鈔を編んだ」/と書いているところを見ると、職業的にはどこぞの女学校の教師であった。


 これを読むと、昨日挙げた神戸新聞の河本正義と、『播磨童謡鈔』や『覗き眼鏡の口上歌』の河本正義は、同一人物なのだろうか、という疑問を覚える。
 昭和4年(1929)4月1日に兵庫県神戸市に編入(灘区)された兵庫県武庫郡西灘村に、同年現在地(兵庫県西宮市上ヶ原)に移転するまで存した関西学院(中学部)には、播磨からの入学者もいたであろう。しかしながら「私が女学校の教職についてから」が引っ掛かる。同一人物とすれば、まず高等女学校の教諭になり、その後、神戸新聞社に入ったという順番になろうか。
 上氏の調査は自然災害にも妨げられていた。13頁14〜19行め、

 なお、このわらべ唄集の奥附には、「編者の河本正義」の現住所として「神戸市湊区下祇園町四二/六」という地番が記されている。この地番は、現在は「神戸市兵庫区祇園町」となっており、神/戸家庭裁判所や神戸少年鑑別所のすぐ隣りだが、町内会の近年作成した居住者地図を眺めるに、河/本姓の家はどこにも見当らない。訪ねれば古老から情報を得られるのかも知れないが、兵庫区はこ/のたびの阪神淡路大震災で被害の激甚だった地区であり、訪問を遠慮しなくてはならなかったこと、/いささかならず残念である――


 生後まもなく移転したものの私も播磨の生れで、少年時代の数年を播磨と摂津で過ごした。偶々父の仕事の都合でしばらく滞在しただけの根無草で、ほぼ縁も切れてしまったが、高校を卒業して25年を経た今も、やはり懐かしい。――親類縁者がいる訳でないのでなかなかゆっくり資料調査に赴く訳にも行かないこと、いささかならず残念である。(以下続稿)