瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

河本正義『覗き眼鏡の口上歌』(5)

 さて、昨日見たように『三田村鳶魚日記』昭和7年(1932)7月20日条、神戸陳書会の例会の出席者12名(三田村氏を除く)の名前を列挙した中に河本氏の名が見え、住所も「湊区馬場町四一一」と添えられている。
 この住所は、2015年5月31日付(3)に引いた上笙一郎「解説」に言及される、昭和9年(1934)刊『播磨童謡鈔』の河本氏の現住所「神戸市湊区下祇園町四二六」とは異なっている。当時の地図を見るに兵庫縣神戸市湊區の馬場町と下祇園町は現在の兵庫区で、隣接している。
 この会には会員以外の出席も見られるが、河本氏は特に三田村氏と縁があった訳ではなさそうだから、会員としての出席のようである。そこで国文学研究資料館HPの「電子資料館/近代文献情報データベース/近代書誌・近代画像データベース」にて閲覧出来る、大阪大学附属図書館・小野文庫所蔵の全15冊揃いの神戸陳書会編「陳書」から、河本氏の住所と著述を抜き出して見た。
・「陳書」第一輯(昭和六年八月一日印刷・昭和六年八月七日發行・非賣品・神戸陳書会・二四頁)
 裏表紙の裏、奥付の上から右に掛けて「會員名簿(イロハ順)」に、24名挙がる中に6番め、

同  馬場町四一一       河  本  正  義

とある。寄稿はしていない。
 ここで、この会及び会誌「陳書」について、一頁「例 會 開 催 狀 況」から確認して置こう。2~5行め、

珍に凝らず、奇に偏せず、例月圖書印刷物を持ちよりて相互研究の例會を催すべしとの議起り/て昭和六年三月二十二日神戸市榮町大阪朝日新聞神戸支局會議室に於て第一回の會合をなし、/出席者十六名を得て會名を議し神戸陳書會とし、爾來七月十八日第五回例會を開催するの間毎/回十五名乃至二十名の出席者を數へ、‥‥

と会について説明があり、さらに会誌については2段落め、7~9行め、

毎回出陳圖書百部を越ゆる事多きも、各圖書に就きての解説は之を各員の自由とし、既往五回/に亘る間提出ありたるものを一括し茲に鉛槧に付し、爾後五回を一期として會報を發行し會員/に頒たんとす。

とある。
・「陳書」第二輯(昭和六年十二月廿五日印刷・昭和七年一月一日發行・非賣品・神戸陳書会・四六頁)
 裏表紙の裏、奥付の上から右に掛けて「會員名簿(イロハ順)」に、25名挙がる中に7番め、

同  湊區馬場町四一一       河  本  正  義

とある。寄稿は四〇頁上段4行め~四二頁上段7行め「攝津播磨名所舊蹟一枚摺」17種を紹介。四五頁下段~四六頁下段4行め「編 輯 後 記」の前半、四五頁末(下段19行め末)に「(師走中浣・河本正義)」とある。ちなみに後半(四六頁)の末尾(下段4行め末)には「(歳末扇港金星臺下にて太田)」とあり、第一輯から奥付に発行者もしくは編集人と云った格で載っている「受信所」*1を担当していた太田陸郎(1896.8~1942)である。太田氏は同時期の「兵庫縣民俗資料」でも河本氏と行を共にしていた。
・「陳書」第三輯(昭和七年七月十三日印刷・昭和七年七月十五日發行・非賣品・神戸陳書会・二六頁)
 裏表紙の裏、奥付の上から右に掛けて「會員名簿(イロハ順)」に、27名挙がる中に8番め、

同  湊區馬場町四一一       河  本  正  義

とある。寄稿は二四頁上段2~17行め「續膝栗毛播州廻」零本の紹介。
・「陳書」第四輯(昭和九年二月十三日印刷・昭和九年二月二十五日發行・非賣品・神戸陳書会・二八頁)
 裏表紙の裏、奥付の上から右に掛けて「會員名簿(イロハ順)」に、29名挙がる中に10番め、

同  湊區下祇園町四二六       河  本  正  義

とある。寄稿は七頁下段4行め~八頁上段「攝津播磨名所舊蹟一枚摺」第二輯の続きで「18」から「28」まで11点。
 すなわち河本氏は昭和6年(1931)、7年(1932)には湊区馬場町411、昭和9年(1934)には近隣の下祇園町426に転居している。(以下続稿)

*1:第六輯から「編輯兼/發行人」となっている。