瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

松本清張『鬼畜』(08)

 昨日の続き。
 本書は「松本清張映像作品」と題しているが、5月1日付(05)に紹介した背表紙下部や表紙上部の文言に「映画の創り手たちが語る松本清張映画化作品の全て」とあるように映画がメインで、テレビドラマ化しかされていない作品は取り上げられていない。尤も、そこまで範囲を拡げては2時間ドラマで今でも作られ続けているのだから、それこそ際限がなくなってしまう。表紙下部に「映画化作品36本を創作の秘密から/原作との違い、テレビ化作品との比較まで/「徹底分析!」」とあるように、テレビドラマは映画との比較を主に、編集部による【作品解説】で簡単に触れている。
 2013年3月15日付(02)にDVDの写真を貼付した「鬼畜」のテレビ版にも「テレビ版の方が/子殺しの動機づけが強い」の1節を設けて、やや詳しく触れている。主人公(ビートたけし)の妻(黒木瞳)の「子供を殺す動機づけをさらに強めている」映画との設定の違い、また「ラスト近く」で「産みの母親の室井滋」が再登場することなどに触れ、そして055頁12〜17行め、

 ラストは「父ちゃんか?」と/聞かれた利一が首を振り、崖で/寝ていたら自分で落ちたと言/い、父親をかばっているのが/はっきりとわかるシーンとなっ/ている。‥‥


 テレビ版は見ていないので、この要約で良いのか疑問もあるけれども、この通りだとすれば「父ちゃんか?」の答えになっていない。不自然である。しかし父と対面してからこんなことを言ったのだとすれば*1、自分はこうやって父ちゃんを庇っているのだから、父ちゃんもそういうことにしてくれよな、と云うメッセージになるだろう。しかし助けようともせず助けも呼ばずに立ち去っているのだから、実は全く庇えていないのだけれども、まぁそこは、子供の浅知恵だから……。質問の答えになっていないのも父を庇うことに必死で、話の流れの不自然さになど構っていられなかった、と云うことになるのだろう*2
 さて、この書き方からして、編集部は「はっきりとわかる」ように作っていないけれども、映画版も「父親をかばっている」と解釈していることが察せられる。それは、これに続くインタビューで助監督が明確に*3この解釈を取っているからで、関係者が「かばっている」と説明している以上、そういう取り上げ方になる訳である。

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 私は、2013年3月15日付(02)に書いたようにしか解釈のしようがない、と考えているので、桂千穂+編集部「松本清張映像作品 サスペンスと感動の秘密メディアックスMOOK448)を見たときに反論したいとは思っても、2013年3月14日付(01)に挙げた事前の宣伝文句が全てそうであったように、制作者側の公式見解が「かばっている」なのだから、ちょっと書きづらいと思ったのだった。――女子高の定期考査で、間違った説明を聞いた他のクラスの生徒のノートを根拠に、私が不正解とした解答を正解とするよう迫って来た生徒のことを思い出す。或いは、教科書には指導書と云う参考資料があるのだけれども、これには実は、しばしばこんな解釈しちゃいかんだろう、と云うような珍説が示されていたりする。古典の指導書の校閲を手伝ったとき、現役の高校教諭が執筆しているにも拘わらず文法の説明が無茶苦茶で、この人は本当にこの通り授業を展開しているのだろうか、……だとしたら、教師に必要なのはハッタリ(と云う言葉が悪ければ、押しの強さ、と云うか、有無を云わさぬ説得力)で、とにかく「そういうことにしてしまう」ことなのだ、と、当時あまり話を聞いてもらえなくなっていた私は絶望的に思ったものだった。そして私はいよいよハッタリからは遠ざかって、自分の喋っていることに自信が持てなくなってしまったのである*4
 それはともかく、4月29日付(04)に紹介した西村雄一郎『清張映画にかけた男たち』により、脚本家の意図を知って漸く堂々と反論出来ると思ったのだった。もちろん宣伝文句を知らずに映画本編だけを見れば、「かばっている」とは取れないはずである。現に宣伝文句を知っていて見た、公開当時の観客の一部も違和感を抱いている。しかし、チラシ・ポスター・予告篇の全てが「親子の絆」を強調しており、この宣伝文句通りにうっかり感動してしまった人も少なくない、と云うか、そっちの方が多数派だ。そこを突き崩すには“個人の見解”だけではいけないので、どうしても根拠が必要になって来る*5。――現実*6には、採点に抗議してきた生徒に妥協して×にした解答をにしてやったように、或いは西村氏の如く「どちらも本当だ」とせざるを得ないのだけれども。(以下続稿)

*1:映画版では2013年3月15日付(02)に注記したように、警察に保護された直後にこのように発言している。話の流れとしても不自然ではない。

*2:しかしこれでは、2013年3月14日付(01)に批判した宣伝文句と同じで、全体の状況を把握する判断力も情報も持っていると思えない子供が、この人たちに自分を殺そうとしたことがバレたら父がどうなるのか分かっていて、こんなことを思い付いたことになってしまう。――子供の視線から発想していない、すなわち映画版の、宣伝文句から発想された甚だ不自然な設定と云わざるを得ないと思う。

*3:5月21日追記】ここは投稿当初「撮影監督・プロデューサー・助監督のインタビューのうち、2人が」としていたが、誤解していたので修正した。申し訳ありません。庇っていると言っているのは助監督だけで、助監督のインタビューの冒頭、プロデューサーに「親子の愛情」がテーマだと話したことがある、ように読めるところがあるのだけれども、映画「鬼畜」とは関係ない会話のようにも読める。とにかくプロデューサーが助監督の解釈に同意しているか分からないので「2人」としたのは早とちりであった。プロデューサーのインタビューでは子役について語っているけれどもラストシーンには触れていない。

*4:どう話しても結局、教師の言った通りにコピー出来ればそれで良い、と云う反応を感じることが多くなって、間違いを教えないよりも“分かった気”にさせることの方が良いらしい、と云うことになって来ると、なんだか辛くなってきたのである。――もちろん、私が間違いを教えなかったと云うことでは(詳細は省略するが)ない。

*5:これまで当ブログにしばしば取り上げたように、作者本人が短篇小説の中で設定を間違えていたり、回想で捻じ曲がった記憶を語ったり、と云った例は少なくないので、当人や制作者・出版社などの発する“公式見解”が正しいと云う保証はどこにもないのだけれども、私たちは忙しい日常を過ごすために、そういうものは“正しい”と云う約束事にして物を眺めている。だから、簡単で力強い根拠が、欲しくなる。

*6:【5月28日追記】「現実的」としていたのを改めた。