瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

新田次郎『八甲田山死の彷徨』(2)

森谷司郎監督『八甲田山』(2)
 8月3日付(1)の続き。
 私が気になった場面と云うのは、八甲田山中で身動きの取れなくなった第五聯隊の神田大尉(北大路欣也)が、第三十一聯隊の徳島隊のことを思い「徳島大尉、徳島隊に会えば、生きる道がまだ開ける」(01:46:56〜47:02)と自らを励ますように心中で言い聞かせる場面に続いて、画面は徳島大尉(高倉健)の顔(01:47:02〜05)に切り替わり、続いて、――雪の残る岩木山を背景に花咲く林檎の林を歓声を上げて駆ける子供たち、谷間に開けた河原で水遊びをする子供たち、そのうちの1人が母親らしき人物の背後でイタコの口寄せを見、石地蔵の並ぶ岩窟のような場所に蝋燭を捧げる場面*1が続き、黄昏時に岩木山のシルエットを背景にねぷたと練り歩き、同じ少年が一緒に歩いたり見上げたりする場面(01:47:05〜48:17)があって、再び雪洞の中に無表情に立つ徳島大尉の顔(01:48:17〜25)になる。これに続く「一月二十六日 午前六時」の場面で発せられるのが、例の神田大尉の「天は我々を見放したッー」(01:50:10〜13)である。
 同じような場面が、八甲田山に突入した三十一聯隊が猛烈な吹雪に襲われるところで繰り返される(02:28:17〜30:27)。――同じ少年がメインで、ねぷたの見物(背後に母親らしき人物)、桜の咲く城、祖父らしき人物とともに馬に乗り、再び花咲く林檎畑を駆け回る子供たち、田植えする早乙女たちに苗の束を投げ、稲の育った田で草取り、見渡す限りの菜の花畑、胡瓜で作った馬などを供えて母親らしき人物と墓参り、虫送り、水遊び、たわわに実った林檎のもぎたてに齧り付き、稲穂の実った田の向こうに岩木山、稲刈り、脱穀、遠い山と海、岩木山、そして最後に何故か暗くなった砂浜に一人泣きながら佇んで、白波を眺めている。
 この後、賽の河原の雪原に散乱する死体を目撃する場面になる。さらに神田大尉の死体と言葉を交わす幻想に。
 さて、このやや唐突に差し挟まれる幼少期の回想シーンだが、雪中行軍が決まって、青森の神田大尉が情報交換のため、弘前の徳島大尉の自宅を訪ねる場面、酒を酌み交わしながらの夕食での会話に基づいている。
 00:17:02〜19:09、

神田:「徳島大尉は津軽の生れ、育ちも津軽ですねぇ」
徳島:「あぁ、南津軽郡の石川の乳井*2。女房までが、黒石の北田中だ*3
神田:「いやぁ、弥三郎節が板に付いている」
徳島:「いやぁ」
神田:「私は隣の秋田ですが、青森に来てもう長いのに、どうも弥三郎節は上手く歌えない」
徳島:「そんなことはないよ。歌なんてその気になれば、どんな歌でも歌える」
神田:「いや、そうでもありませんよ」
徳島:「どうしてぇ?」
神田:「人間ほど風土に大きな影響を受ける者は。しかし普段はそれに気が付かないし、忘れてしまっている。私は雪中行軍の際、小隊長や指揮班の連中にときどき聞くんですが、一番辛いときには何を考えている、するとみんなは、温泉にでも入り熱燗、とにかく何を置いてもキューッと熱燗の一杯だと言う。いや、この気持ちは分からぬこともないが、自分はそうじゃない。寒さが厳しければ厳しい程、春の花とか、夏の山の緑、子供のときに小川で捕った魚とか水遊び、学校の遠足のときに見た日本海。そんなものばかり思い出すんですよ」
徳島:「俺は、岩木山のときは雪の中で何考えていたかな。ちきしょう、風はどっちからで、温度は、馬に履かせるカンジキでも、とか。――神田大尉、どうもそういう考えだけは、俺には縁がなさそうだな」
二人:笑う。


 すなわちこうした回想は、そもそも神田大尉のものであったはずなのだが、雪の八甲田では、徹底した現実主義者であるはずの徳島大尉がこのような回想、というか幻想を見たことになっている。――たびたび岩木山が写るから津軽出身と云うことになっている徳島大尉の回想だと分かるけれども、いや、ちょっとそこまで覚えていられないだろう。むしろ、神田大尉が徳島大尉にこのような話をしていたことを覚えていたらば、これって神田大尉の回想なのか? と却って混乱しそうだ。
 今はピンポイントで再生することが出来るから、こうした疑問点をすぐに解消出来るが、ビデオテープでは大変だったろう。――実家にビデオデッキはあったのだが、ビデオテープで映画を見るのが何だか億劫で(その頃はテレビ放送も頻繁にあったと思う)友人から借りた『生きる』と、別の友人の家で見た『新幹線大爆破』と『バタアシ金魚』くらいしか見たことがない*4
 それはともかく、――これは、同じ境遇に置かれた二人の大尉の、精神的な紐帯が象徴されていると見るべきなのであろう。
 しかしそれ以上に、あの映画の、あのシーンと重なって見えて仕方がなかったのである。(以下続稿)

*1:川倉賽の河原地蔵尊と、その例大祭か。

*2:当時は青森縣南津輕郡石川村大字乳井。現在は青森県弘前市乳井。

*3:当時は青森縣南津輕郡中郷村大字北田中。同郡黒石町の北郊。現在は青森県黒石市

*4:映画を見る習慣がなかったので、どうしても見たい映画と云うものがなかった。だからテレビで放映されるものを、余裕があれば見る、それで済んでいた。――『新幹線大爆破』については、2014年8月21日付「佐藤純弥「新幹線大爆破」(1)」に書いた。『バタアシ金魚』も同じ友人の家で見たように思う(いづれ再見の機会があれば記事にしよう)。