瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

3人のヤマンバ(1)

 それはそれは楽しかった、と女子高講師時代について2015年8月9日付「吉田秋生『櫻の園』(1)」に書いたけれども、あの女子高はかなり特殊な環境だった。
 それ以前にも私は共学高と男子高で教えたことがあったのだが、2つともかなり大変な学校だった。だから何事にも緩く穏やかな女子高が楽園のように思えたし、その後の仕事の煩雑さがほとほと嫌になるのである。

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 共学高の方は、海外に行くために中途で退職することになった知人の後任として年度の途中から入ったので*1、教育実習以来教壇に立つ機会もなかったド素人であるにもかかわらず、高3の成績優秀なクラスも担当させてもらえたのだが、同時に高3の商業科も担当することになったのである。それで使いさしの教科書を受け取って、クラスの雰囲気とか授業の進め方等について簡単な説明を受けたのだが、家に帰って教科書の、次にやったら良いと云われた文章を読んで見るに、定期考査まで時間数が20コマ余あるのに、10頁くらいしかないのである。今では驚かないが、当時の私は愕然として、これでは時間が余るのではないか、と思い、私はもう前任者に会う機会がなかったのだが、もう1人、前任者のコマを分割して担当する共通の知人(と云うか、こっちの方から私に回って来たのだが)が出発の少し前に、デパートで会って一緒に食事して餞別*2を渡す、と云うので、私も餞別の品に幾らか出すことにして、ついでにこの点について確認するよう頼んだのである。すると、その答えは、――教室に入れるのに5分、授業の準備をさせるのに30分、そして10分も話を聞いたら飽きてしまって、残りの5分はグダグダになって授業にならない、と云うのであった。これには少なからず驚かされたが、実際に始めて見ると、ギリギリ範囲を終わらせるような按配でむしろ足りないくらい(!)になったのである。生徒たちはそんな授業態度なのに無視されるのは嫌いなので、たまに教室を巡回してやる。今、ヤマンバがいるのかどうか、当時はまだ、商業科には3人棲息(?)していて、教室内はしっちゃかめっちゃかだから後ろまで行くのが既にちょっとした探検みたいなものなんだが、私が後ろまでやって来ると嬉しそうに「ヤッホー、先生」とヤマンバらしく(?)挨拶して来る。授業は聞かない。――その後の勤め先でそんな思い出を語ると、「3人のヤマンバ」って、昔話の絵本みたいですねぇ、と言われたことだった。尤も平和な一方ではなく、たまにつかみ合いになったこともあるが、捻くれたところがなく素直で可愛い連中なのである。学校サイドが自分たちをお荷物に思っているらしいことを自覚していて、「うちら見捨てられてるから」と講師室に訴えに来たこともあった。その訴え通り、商業科はその後何年かして廃止になった。
 他に思い出としては、ある日、授業に行くと何だかおとなしく教室に収まっているので何事かと思ったら、運動会の団体競技の練習をしたいと言い出した。訳が分からないので詳しく聞いてみると、担任の許可も取って、屋上も押さえてあると云う。別に授業を急ぐクラスでもないので一応職員室に行って担任に確認の上、生徒たちを引き連れて、いや、生徒たちに連れられて屋上に上がって、私は柵に凭れながら愉しそうな生徒たちを眺めたり、周囲を見渡したりして、しばし解放感に浸った。住宅地で校舎の高さでも東西南北に眺望が広がる。――女子高では毎年運動会に参加したのだが、ここでは特に誘われた覚えもなく行かなかったし、結果がどうだったのか、聞いたのか、教えてくれなかったのかどうかも、もう覚えていない。
 それから、非常勤講師は担当する授業の時間にだけ学校にいれば良いので、1時間めに授業がなければ始業前から登校する必要がないので、ある日、10時くらいだったと思うが、まだ駅に近い辺りを歩いていたら生徒に会ったのである。1時間めから授業がある場合には、たらたら歩く生徒が邪魔なので指定されている通学路とは違う道を歩くのだが、この時間だから通学路を歩いていたら「先生」と言われたのである。声を掛けられなければ顔も確かめずにずんずん先に行くところだったが、学校まで、大胆に遅刻しているのに全く急ぐ様子もなくのんびりと一緒に、その、朝の弱そうな低血圧っぽい表情豊かとは言い難い女生徒と、歩いたのである。もちろん私は遅刻ではないのだけれども。――通学路にヤクザの愛人がやっている店があって発砲事件があったとか、そんな話を聞かされながら歩いているうち、学校近くの寺の裏手の路地で「うちのクラスどうですか」みたいなことを聞くので「君たち聞いてないだろう」と応じると「でも、みんな先生のこと嫌いじゃないと思いますよ」と言われて、生徒に褒められる、いや、褒めちゃいない、……認めるようなことを言われたのは初めてだったので、流石にほっとしたのである。
 進学クラスの方では、私の前任がしっかりした人だったので、私などは軽んじられていたが、まだ若かったし、生徒側にも専任教諭よりも講師の方が話が分かる、みたいな空気があったので、困難を感じるようなことはなかった。私は記述問題が苦手なので定期考査の問題はごくあっさりしたものを作って、あまりの量の少なさに開始早々笑いが漏れたそうだが、しっかり考えないと答えられないように作ってあったので終いには当初の余裕もなくなったらしい。――これに味を占めて、私は試験問題作成に喜びを感じるようになった。その後、人の目もあるので笑いが漏れるような少量の試験を作るのは止めたが、授業での説明をそのまま答案に書けば済むような問題ではなく、その場で考えて何とかなるような問題を作るように心懸けた。だから私の試験では90点以上取れない。80点が最高だったこともある。授業で強調したポイントを出題するような定期考査で100点近く取る生徒と云うのは、得てしてあまり考えていなくて、授業の内容をまるまる覚えているだけなことが多い。その一方、欠点は殆ど出さなかった。授業を聞いていないと選べないような選択肢ではなく、本文をよく読んで考えれば選べるような選択肢にしたからである。
 しかしこんな定期考査も、絶対評価(定期考査の点数がそのまま成績になる)ではなく相対評価(定期考査の平均点を基準にして、設定されている評定平均に合うように、5段階の成績を決める)の学校だったから通っていたのだ。相対評価なら80点が最高なら70点台後半から80点までが「5」になるが、絶対評価では61〜80点は「4」になってしまう(学校により相違はあると思うし、もちろん考査の点だけでなく平常点も若干加味されるのだが)。かつ、段々試験を自分で作れなくなって来たのである*3
 それはともかく、この共学校では卒業式にも出なかったし、資料類は前任者が返して欲しいと云って来たので、まとめて海外に送ったので手許には本当に何も残っていない*4。ちょうど私と前任者のコマを分担したもう1人が家庭の事情で勤務が続けられなくなったため、3年の3学期(1月のみ)のみ3年生文系も2クラス担当して、今更難しいことも出来ないので「海外にいる××先生(前任者)に手紙を書きなさい。まとめて送るから」と、手紙の書き方を説明して書かせたものと同梱して送った。――大抵の生徒は教科書に載っている、拝啓、時候の挨拶、みたいな手順を踏んで書いているにもかかわらず、1人、「やっほー××先生 元気? あたしは元気だよ〜」みたいに書いている女生徒がいて、国語の授業で書いているのだからきちんと書きなさい、と注意をすると、姿勢が悪くて机に這い蹲るような按配にしていたのだが、私を見上げるようにして「でも先生、あたしが拝啓とか書いたら、おかしくね?」と言ったのである。私は彼女の顔をじっと見て、大きく頷いたのであったが、もうどんな顔だったのか覚えていない。(以下続稿)

*1:12月3日追記】この辺りのことは8月11日付「大澤豊監督『せんせい』(4)」に触れたことがある。

*2:11月24日追記】ここともう1箇所、「お礼」としていたのを修正した。後で写真(或いは型録)で見せてもらったが、漆塗の小箱であったように記憶する。

*3:何故そうなってきたのか、については別に書く。

*4:年度末に結局馘首されることになった事情は、もうしばらく時間を置いてから書くべきだと思っているので、今は触れない。