瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

蓋にくっついた話(09)

太宰治『新釋諸國噺』(1)
 2011年6月14日付(3)及び2011年6月15日付(4)に触れた『西鶴諸国ばなし』の「大晦日はあはぬ算用」だが、太宰治が戦時中『新釋諸國噺』に翻案しているのであった。
 しかし、かつての私は2011年1月1日付「森鴎外『雁』の年齢など」に述べたように、有名作家の作品を読もうと思わなかったので、高校までに読んだのは2013年8月31日付「太宰治『走れメロス』の文庫本(09)」に取り上げた、岩波文庫31-090-1『富嶽百景走れメロス 他八篇』のみであった。その後、幾つか読んだが、あまり纏まって集中して読んではいない。
 『新釋諸國噺』は、確か卒業論文に取り上げた説話集に青砥左衛門藤綱の話が出ていて、それで『武家義理物語』巻一ノ一「我ものゆゑに裸川」を読んで、その注釈か何かでこの作品集の存在も知ったのだが、念のために見たと云うまでだから「裸川」だけを見て、それ以外の作品には目を通さなかった。
 その後、「大晦日はあはぬ算用」も「貧の意地」の題で作品化されていることを知った。しかも、高校現代文の教科書に載っているのである。何時から載っているのか、私の使っていた教科書には出ていなかった。しかししばらく前から、高校生の何%かでも授業で読み(読まされ)、そうでなくても西鶴よりは手に取る人が多いだろう。だから在り来たりの文庫本から本文を引いても詰まらないと思って機会を待っていたのだが、結局そのままこれも、7年とは云わないが何年も経ってしまって、一向に埒が明かぬのである。、
 そこでとにかく、今、手許にある文庫本の頁を示して、ざっと相違点を改めて置こうと思ったのだが、また「はまぞう」が不調で書影を貼付出来ない。そこで詳しい比較は次回以降に回すことにして、差当り肝腎な点だけ指摘して置こう。――西鶴は、山芋の煮染めの湯気が重箱の蓋に付いたので、小判が張り付くほどの粘りを示したのだ、と云う説明をしていたが、流石に太宰は山芋と云うことにしていない。特に料理・食材の種類に言及しない。しかし読後感は、西鶴よりもごてごてと余計な語りが多く、饒舌で、やはり全体的に過剰である。(以下続稿)