瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

河本正義『覗き眼鏡の口上歌』(4)

 2015年5月31日付(3)から随分経ってしまったが、河本氏について見るべきものに気付いていなかった訳ではない。
  国立国会図書館デジタルコレクション及び国立国会図書館サーチにて「近畿民俗 = Bulletin of the Folklore Society of Kinki : 近畿民俗学会会報. (31/32)(38)」に寄稿していることは知っていた。しかし雑誌はインターネット公開されない*1ので、未見である。もちろん、その後何度か国立国会図書館には出掛けたが、他のことにかまけて確認しないままであった。なお、巻号の表記が分かりにくいが、31・32合併号で戦前からの通号38号と云うことらしい。
 昭和37年(1962)12月刊、8月8日に死去した柳田國男の追悼号に当たる訳である。なお、奈良女子大学文学部「なら学プロジェクト」のワーキンググループ「なら学研究会」の活動報告2017-09-11「澤田四郎作編『柳田國男先生』(近畿民俗学会、昭和37年)」に、単行本化したものの紹介があり、内容は同じとのこと。奥付、澤田四郎作「はじめに」、「もくじ」が引用されている。
 しかし河本正義「柳田先生と北条」を読むことは出来たので、少し紹介して置こうと思う。――先月『三田村鳶魚全集』を借りた図書館で後藤総一郎 編『柳田国男研究資料集成』第Ⅰ期(日本図書センター・A5判)を見掛けた。
・『別巻』昭和61年6月25日 初版第1刷発行・定価5,000円・目次1+例言1+141頁
 65~142頁「Ⅱ参考資料」の133~142頁「柳田国男研究資料集成 第Ⅰ期 執筆者索引」を見るに、136頁下段(3段組み)10行めに「河 本 正 義…………………………‐108」と見えている。
・『第7巻 昭和編Ⅶ 昭和37年12月~昭和38年12月昭和61年6月25日 初版第1刷発行・定価5,800円・目次7+凡例2+429頁
 3~112頁6行めの32篇の末尾に「〔『近畿民俗』第三一号、昭和三七年一二月〕」とある。「近畿民俗」31・32合併号には40人が寄稿している。
・『第6巻 昭和編Ⅵ 昭和37年9月~昭和37年12月昭和61年6月25日 初版第1刷発行・定価5,800円・目次5+凡例2+420頁
 最初の8篇は、こちらの最後(375頁7行め~420頁)に、分割されて収録されている。
 さて、河本正義「柳田先生と北条」は40篇中39番め、『第7巻』108頁6行め~110頁5行めに収録されている。
 河本氏は「故郷七十年」が神戸新聞に連載されだした当時、兵庫県加西郡北条町(現・加西市)にいたらしい。河本氏は108頁12~13行め「これを機会に一度、帰って来てもらいたい、という話が、北条の人々/の希望になってきた」ことを「先生に伝える手紙を、私と古家実三翁とが書いた」のに対して、柳田氏から(昭和33年)三月九日付返信葉書が届き、その尚々書(追伸)にて109頁7行め「五六年前に故郷にかへり旧知と歓談し、最終のいとま乞をして来ましたから再訪は思ひ立ちません」と断られている。これに対して河本氏は、109頁11~12行め、

 昭和二十七年に帰られたのは、先生にしては文中にある様に、最終のいとま乞いという感慨がおありだったと/は、その時は誰も伺えなかった。福崎高校では千人の生徒に講演をされた。‥‥

と述べているが、或いは昭和27年(1952)当時河本氏は兵庫県立福崎高等学校勤務だったのか、それとも所縁を以て特に聞きに行くことが出来たのか。
 そして、最後の段落(109頁19行め~110頁4行め)に、

 それから、昭和三十六年の十二月三日の頃だった。北条高校に掲げる額を、先生に揮毫してもらいたい、とい/うことになって同僚の教師が、先生のお宅を訪ねたことがある。北条から来たというので歓待をうけて、三時間【109】ほども北条の懐古談に花が咲いて帰ってきた。その時に、先生の母親の妹が小野町に嫁いだが行先が不明で気に/なっていることや、高等学校が北条の町のどの辺にあるのか、という同じ問いを三度も繰り返された、という同/僚教師の話を聞いて、なにかしらん私の心の中に、一抹の淋しさを催した。折り返し、先生から老来、筆を持つ/のは困るから、との鄭重な断りの御封書を下さった。これが先生との最後の徂来となった。噫。

とあり、昭和36年(1961)には河本氏は兵庫県立北条高等学校に勤務していたようだ。(以下続稿)

*1:著作権が継続している人が存するため。