瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

『三田村鳶魚日記』(29)

・高松家との関係(6)高松みさを②
 その後も、高松みさをは姉の家をしばしば訪問しています。数え年で十八歳、5月8日付(19)に見たみさをの母校・私立東京高等女学校は、東京女子学園高等学校HPの「学園紹介/沿革」に拠ると、大正11年(1922)4月から5年制になりそれまでは4年制だったそうですから、既に女学生ではなかったようです。
 八月六日(水)条には、164頁下段12~13行め「‥‥。○臼井氏を訪ふ。/操女来る。○‥‥」、八月七日(木)条には、164頁下段16行め「森義周氏来る、操女来る。○‥‥」とあって、臼井氏や森氏とみさをが来たことに関係があったと思われませんから、この頃の三田村氏は会った人について一纏めに記述していたようです。九月二十四日(水)条には、164頁下段12~13行め「操女来ル。○八重、今給藜ヲ具シテ、萩寺、亀井戸天満/宮、浅草公園ヲ歴観ス。○‥‥」とあって、別項になっていますが、みさをが来たことで八重夫人と今給藜平の4人で出掛けたようにも読めます。すなわち、十月二十六日(日)条、172頁下段19行め「八重、操、今給藜ト常盤木倶楽部ノ家庭講演会ニユク。/○・・‥」と同じ顔触れで出掛けたのではないか、と思われるのです。
 常盤木倶楽部については、次の本を見て置こうと思います。

志村和兵衛資料にみる日本橋柏木亭・北海道商会・哥澤芝金・日本橋常盤木倶楽部

志村和兵衛資料にみる日本橋柏木亭・北海道商会・哥澤芝金・日本橋常盤木倶楽部

 十一月九日(日)条には、174頁上段16~17行め「八重、操ヲ具シテ南葵文庫ノ武具展観ニ参ジ、滝野川看/楓ノ後、上野広小路鈴本亭ニ往ク。○‥‥」とあって、麻布區飯倉町にあった紀州徳川家の私設図書館南葵文庫の展示を見に行っています。三田村氏は図書の閲覧に南葵文庫をしばしば利用していました。
 十一月二十三日(日)条にも、176頁上段12行め「‥‥。○操女来ル、増田新太郎氏。○‥‥」と見えます。
 そして十二月七日(日)条に、177頁上段19~20行め「‥‥。○高松の人々新宿へ移居す、今給藜を助勢/にやる。○‥‥」とあって、大正2年(1913)12月7日に高松家は小石川から新宿に転居したようです。(以下続稿)