瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

左巻地蔵(1)

 私が小学生の頃、小学校の郷土研究クラブの顧問が、校内放送でこの地蔵にまつわる伝説を紹介していた。
 当時、兵庫県明石市高丘3丁目にあり、一度見に行ったことがある。
 道路に面したコンクリート壁に穿たれた横穴に安置されていたように記憶するのだが、久し振りに思い立って地図検索して見るに、 高丘3丁目ではヒットせず、1kmほど南南西の明石市大久保町大窪1213の光触寺の門前がヒットした。
 同じ名称の地蔵が近所に紛らわしく2つあるとも思われないから、私の知っている左巻き地蔵が、その後、光触寺*1に移されたのだろうと思うのだけれども、世間には於岩稲荷のように同じ(?)ものが向かい合わせに2つあったりもするのだから、念のため、さらに検索して見るに、「明石市大久保町の商店街 パレットおおくぼ」HP地域情報「大久保歴史探訪」第1回「光触寺(こうそくじ)2014.10.28*2に、

 又山門の右手に<左巻き地蔵>の祠がありエプロン(よだれかけ)の下に左巻きの型が付いて珍しいのでそう呼ばれているそうです。確かではありませんが僕の記憶では昔左巻き地蔵は高丘の沈丁花公園の場所にあり地蔵盆などで見たような気がする幼少時の思い出がありますがあてにはなりません。

とある。署名はなく「僕」が誰だか分からない*3
 そこで今度は「高丘の沈丁花公園」で検索して見るに、明石市高丘3丁目18番の「高丘ジンチョウゲ公園」がヒットした。ストリートビュー(2015年3月撮影)で現地を確認(!)するに、この公園の南側は石垣になっているが、その東端近く、2~3mほど方形に後退させて、コンクリート製の祠を建ててある。壁に開けた横穴に安置されているように思っていたのは記憶違いだが、別にはっきりした記憶があった訳でもない。しかし、観音開きの扉が灰白色の鉄格子であるのは何となく見たことがあるような。しかしながら現状、何の供物もなく、正面から撮影されていないので鉄格子の中が見通せないのだけれども、どうも、何もないように見えるのである。
 とにかく、当時の場所はここで間違いないようだ*4
 「パレットおおくぼ」HPの地域情報「大久保豆知識」もやはり記事が少なく「大久保昔ばなしは怪獣ファンタジックワールド!vol.1」2014.10.28 第1回目「 喰ケ池と左巻き地蔵 」と、「大久保昔ばなしは怪獣ファンタジックワールド!vol.2」2015.09.19 「 青池の龍 」の2つだけである。――尤も、あまり頻繁に更新されても読むのが大変だけれども。
 この「喰ケ池と左巻き地蔵」には(参考:あかし昔ばなし)とある。兵庫県立図書館HPで資料検索するに、
神戸新聞明石総局 編『あかし昔ばなし』昭和53年・明石文庫の会・156頁
神戸新聞明石総局 編『あかし昔ばなし』昭和58年8月・明石文庫の会・156頁
の2点がヒットする。私の明石市在住はこの2点が刊行された間に、丁度収まる。Amazon楽天では取り扱っていない。画像検索してヒットする、障子に身振りを交えて語る大人と、興じて笑う小児2人(姉と弟であろう)のシルエットの装画は見たことがあるようである。しかし内容は覚えていない。左巻き地蔵の話も、私の聞いた話はこんなドラマチックな内容ではなくて、――あるとき通り掛かった旅人が見たら、蛇が左巻きに巻いていたので左巻き地蔵と云うようになった、と、それだけの話で、何故、蛇が地蔵に巻き付いていたのだが、どうも偶然、通り掛かった旅人が目にした、と云った按配で、その辺りの説明は全くなかったように思う。
 だから、地蔵に左巻きの痕跡があるのを確かめようとした覚えがない。いや、鉄格子の中だし、涎掛けがあったかどうか、それも覚えていないが、掛かっていたとしたらよく見えなかっただろう。
 さて、私が来た当時は、この辺りは宅地造成されていたけれども、何故か分譲されておらず空地だった。これは、2015年3月撮影のストリートビューで見る近隣の家が新しく見えるのと合致する。(以下続稿)

*1:一般社団法人 明石観光協会」HP「観る」の「光触寺」項には特に記述はない。なお「アクセス方法」が「JR「明石駅」より北東へ徒歩15分」と説明されているが、「明石駅」ではなく「大久保駅」から、である。

*2:今のところ「大久保歴史探訪」には2014年10月28日付の「第1回」しか投稿されていない。

*3:名前や出身校、業種はともかく、年齢だけは知って置きたい。

*4:ネット上で辿るに、seiyo39 のブログ「散策とグルメの記録」の2009年09月13日「光触寺 太閤秀吉三木城攻めの明石での本陣」に、既に光触寺の門前に移って久しいらしい、小さな堂舎の写真が掲載されている。