瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

飯盒池(8)

 昨日の続き。

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 松谷みよ子の「民話」は民間伝承説話の意味ではありません。
 この点を扱った論考も既に存在しているはずですが、探しに出る訳に行かぬので手許にある材料から、仮に私見を述べて置きましょう。
 松谷氏の民話観を窺うには、次の本が恐らく最良のテキストと云うことになりましょう。
講談社現代新書370『民話の世界』 昭和四九年一〇月二八日第一刷発行・定価=350円・講談社・209頁

・昭和六一年三月二〇日第一四刷発行・定価四八〇円
 この本は何度も再刊されていますので、本全体については諸本の検討の際に述べることにして、ここでは121~201頁「第三部―ふたたび山を越えて 私もあなたも語り手であること」の、122~131頁「1――民衆が語ればすべて民話なのか」の1節め、122頁2行め~125頁「土の人形」を見て置きましょう。冒頭、122頁3~4行め、

 しかし、民衆が語り伝えてきたから、それが民話だとは単純にいい切れないということを、/私は数年前、頰を打たれるような厳しさで思い知らされたことがある。

として、被差別部落の由来として、高僧の土木工事を手伝った土の人形の子孫だと云う伝説を聞かされたときの衝撃を述べ、そして、125頁7~16行め、

‥‥けれども現/に、今、支配者でも何でもないごく普通の人が、あそこには土人形の子孫がすんでいるのです/と声をひそめて語り継いでいるならば、これはいったいどういうことなのか。この話もまた、/民話の中に繰り込まれてよいものなのだろうか。そんなことはあってよいはずがない。
 もし、私たちが民話という言葉をもって、もう一度考えようとするならば、ただいい伝えら/れたものをそのまま次の世代に渡していくのではなく、必然的に、そこには視点が必要となっ/てくるのではなかろうか。民衆が同じ民衆を差別する話、それをも民話に含めてはいけないの/ではないだろうか。差別された側の民衆が差別をはねのけていく、その視点こそが民話の本来/の姿なのではないだろうか。
 私はこの時の激しい心の痛みを忘れることができない。

と締め括っている。松谷氏にとって民話とは民衆に寄り添い、民衆を慰め、民衆を励ます存在でないといけないので、土人形の子孫が被差別部落だ、という民話はあってはならないことになるのです。
 要するに「あるべき姿」を設定して、そこに収まるものを良しとし、そこから外れるものは何らかの抑圧の結果捻じ曲げられたものだとする左翼史観な訳です。いえ、良しとするだけではありません。民俗学者の報告を書き直し(書き換え)て「あるべき姿」にしてしまうこともしばしばです。
 私は、もちろん差別には与しませんが、そういう現実のあったことは記憶して置かないと、世の中は大昔から綺麗事だけで成り立っていたことになってしまう、と危惧するので、松谷氏の、こういった事実を抹殺しようとするかのような態度には同意し兼ねます。
 かつ、ローマ人が分割して支配したように、虐げられた民衆が連帯出来るとは私には思えないのです。弱い者がより弱い者を抑圧する。それは支配者が仕向けたものかも知れませんが、支配者に矛先を向けずに身近な、より弱い相手に当たる。それは、前回引いた「軍隊考」の、日本軍内部の「いびり、しごき」と同じではないでしょうか。
 ハンゴー池の話は、『現代民話考』の本文は簡略でしたけれどもそれは「軍隊考」に思い入れたっぷりに述べていたからで、そこでは軍隊生活の中で理不尽に抑圧された民衆の鬱屈が、数々の日本軍の残虐行為の根っこにある、と(少々曖昧な書き方ではありますが)主張しております。この点、小谷野敦ブログ「jun-jun1965の日記」の2011-10-26「何ゆえか井上ひさしを擁護する者あり」の後半の批判のうち「松谷が左翼だから」との部分は当を得ておりましょう*1。松谷氏の「雪女」には(白馬岳の「雪女」の話はそもそも民間伝承ではないのですけれども、松谷氏はそれに気付いていない(?)のでそこは措くとして)特に左翼臭はしないと思いますが、松谷氏は民話が広く民衆のものとなるために必要な措置として、より「あるべき姿」に書き直し(書き換え)てしまうことも、全く厭わない訳です。
 私はかつて蘭学者について3年ばかり調べたことがあって、と云ってもオランダ語がまるで出来ない(!)ので、蘭学者の周辺にいた蘭学かぶれについて調べて漸く論文を1本書いてそのままになっておりますが、その際、蘭学者や、その域に達しない「和蘭陀かぶれ」たちを封建社会に於ける開明派として評価する左翼史家の文章も随分読んだ訳です。しかし、欧米の人権意識や民主主義を模範として、そこに達していない「彼の限界」を指弾する論調に辟易させられたものでした。
 左翼史家は「あるべき姿」に到達していないことを指弾し、そして松谷氏は、民話とそこに現れる民衆を「あるべき姿」に書き換えてしまう。――或いは、『現代民話考』には、松谷氏の民話観・民衆観に合わないと云う理由で弾かれた報告もあるかも知れません。どうなのでしょうか。
 その意味で「再話」とは、誠に以て、魔法のような手段を編み出したと舌を巻かざるを得ませんし、民話の定義を「あるべき姿」の方に設定したことも、書き換える作業をストレスなく、確信を持って行う原動力となったことでしょう。(以下続稿)

*1:この記事は、当ブログで取り上げつつある(なかなか進まないが)遠田勝の研究を取り上げているところから、ここで一度注意して置きたい。