瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(282)

五木寛之の赤マント(10)
 さて、五木寛之『人生の目的』にはこの他にも、冬に凍結した川でスケートをしたのは京城なのか平壌なのか、帰国後の五木氏の父の不本意な身過ぎの様など、気になる記述があるのだけれども、余り余計なことにかまけていると先に進まなくなるので、別に機会が出来ればそのとき検討することとしよう。
 10月18日付(280)に触れた、日刊ゲンダイ連載の「流されゆく日々」に朝鮮時代の回想が幾らもありそうだと思って、南大門小学校で検索して見ると「記憶の曖昧さについて」と云う記事がヒットした。しかし「流されゆく日々」は会員限定記事である。そこで「日刊ゲンダイDIGITAL」に会員登録した。「有料会員限定」記事でも「無料会員の方は月5本まで閲覧できます」とのことで、「記憶の曖昧さについて」は2018年6月18日から22日までの丁度5回だから、通して読むことが出来た。
 2018年6月18日「連載10432回 記憶の曖昧さについて <1>」は「人の記憶は、いったいどの位まで幼児期にさかのぼれるのだろうか。」と云う書き出しで、「小学校にはいる前のことを思い返してみても、具体的なイメージがあまり浮かんでこないのだ。」として、

 いろいろ考えてみて、私の場合は、たぶん5歳かそこいらのあたりまでしか記憶をさかのぼることができない。それ以前のことは親から聞いた事が自分の記憶のように残っているだけだ。それでも、このところなんとか少しでも幼児期の記憶をさかのぼってみようと苦心しているのだが、これがなかなかうまくいかないのだ。

と纏めている。
 2018年6月19日「連載10433回 記憶の曖昧さについて <2>」は、

(昨日のつづき)
 小学校にあがる前のことだから、5歳か6歳の頃のことだろうか。
 両親とともに韓国の寒村に住んでいたことをおぼえている。たしか日本人は、駐在所の巡査夫婦ぐらいで、あとはすべて土地の人ばかりだった。

との書き出しで、10月13日付(278)に見た、五木寛之『わが人生の歌がたり』第一部『昭和の哀歓』の第一章「はじめて聴いた歌」の3節め「■青空に舞うブランコとチマチョゴリ」に回想されていた(引用はしていない)村の祭りの様子を、より詳しく述べている。そして、

 この記憶の中の風景は、はたしていつ頃のものだろうか。私が5歳のときに、南京陥落の花電車をソウルで見た記憶があるから、その1年ほど前とすれば、昭和11年(1936年)のことだろうか。日支事変と呼ばれた日中戦争の直前になるのかもしれない。昔は数え年(生まれてすぐに1歳と数える)だったから5歳(今の4歳)くらいだったのだろうか。
 私の記憶のもっとも初期に属する部類だ。

と云うのであるが、『昭和の哀歓』では10月17日付(279)に見たように、京城に移ったのを「太平洋戦争開戦二年ほど前」すなわち昭和14年(1939)としていたのが、ここでは昭和12年(1937)12月の南京陥落の時点で京城に移っていたことになっている。そして10月19日付(281)に見た五木寛之『人生の目的』の5章め1節め「人生の絆」では、この寒村から少しずつ大きい町に移って京城の南大門小学校に栄転する、と云う流れになっていたのが、『昭和の哀歓』と同じく寒村から一足飛びに京城に移ったことになっている。
 しかし、花電車は南京陥落に限らず、昭和13年(1938)10月の武漢三鎮陥落の際にも走っているはずで*1、それ以後も皇紀二千六百年記念式などでも運行されただろうから、南京陥落とは決められないのではないか。しかし、五木氏はここでヌクテの記憶を持ち出して、寝小便のことまで追加して、

 その村では、夜になるとヌクテがないた。山犬のような、狼のような動物だと教えられて、恐ろしくてしかたがなかった。
 夜更けにトイレに起きる。昔の家は便所が廊下をつたって離れた場所にあった。その暗い廊下を通るのがひどく怖かった。ちょうどそこにさしかかったときに、ヌクテの遠吠えがきこえたりすると走って寝床に逃げ帰ったものだった。オネショと呼ばれる寝小便をするのは、そういう時だった。
 母親が「早く京城(ソウル)へ転勤しましょう」と父親に言っていたことをおぼえている。やがてその願いがかなって、私たち一家は大都会である京城へ引っ越した。それが昭和12年のことだったのかもしれない。

と、やや曖昧ながら昭和12年のこととするのである。注意されるのは母が父に「早く京城へ転勤しましょう」と具体的に場所を挙げて言っていたことになっていることで、『昭和の哀歓』では10月13日付(278)に見たように、ヌクテの遠吠えを聞いて「早く何とかここを離れましょう」と父に言っていたことになっており、それとは別に「もっと大きな街へ行けないでしょうかと、いつも父に言ってい」たことになっている。10月19日付(281)では引用を割愛したが、『人生の目的』の「人生の絆」の節では、169頁15行め~170頁2行め、

‥‥。ああ、またヌクテ/【169】が吠*2えている。と言いながら、母はひとりごとのように、早くもっと大きな街へいきたい、/とつぶやいていたことを思い出します。

と、独り言として呟いていたことになっているのである。(以下続稿)

*1:2月21日付(222)に触れた北川幸比古の談話。

*2:ルビ「ほ」。