瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(172)

・青木純二あれこれ(2)嫁が欲しい②
 それでは昨日の続きで、青木純二「嫁が欲しい」の原本を見ていないらしい湯沢雍彦『大正期の家族問題』は,何処からこれを持って来たのか、と云う疑問を片付けて置きましょう。
・体系日本史叢書17『生活史Ⅲ』昭和44年9月1日 初版 第1刷・昭和51年1月15日 1版 第4刷・山川出版社・15+462+附録12頁・A5判上製本

体系日本史叢書 17 生活史 3

体系日本史叢書 17 生活史 3

  • 発売日: 1969/09/01
  • メディア: 単行本

 前付1~4頁、小西四郎「まえがき」は「一九六九年八月」付。冒頭、1頁2~14行めを抜いて置こう。

 私が本書の責任編集を引き受けてから、すでに十年に近い歳月が経過した。当初私は、この仕事を、とても一人/では扱い得ないと考え、数名の人々との協力によって完成しようと思った。なぜならば、この仕事は、いわば前人/未踏の分野を扱うことであり、この完成には非常な困難な問題があると判断したからであり、そしてそれらの人々/との共同研究によって、野心的な作品を作ろうと思ったからである。
 この叢書の編成は、政治史とか外交史とか経済史等々、テーマ別の構成をとっており、その際にあげられたテー/マは、ほぼその概念規定のなされているものである。ところが本書の標題である「生活史」については、従来ほと/んど明確な概念規定がなされていなかった。そこにまず本書の作成の第一の困難さがあったのであり、そこからま/ず問題を考えていかなければならなかった。
 この点について共同編集責任者である寶月圭吾・森末義彰の両氏をはじめ、「生活史」第一巻、第二巻を担当さ/れる諸氏と検討会をもち、その具体的内容について討議した。さらに本書の執筆者四人の間で、しばしばこの問題/について話し合った。本書の執筆者である新藤東洋男・松尾章一・那須良郎の三人、ならびに私も、すべて法政大/学近代史研究のメンバーであり、このため討議を行なううえでは非常に好都合であった、そしてその結果、各人の/分担も決定されたのである。


 奥付には「編 者」として「森 末 義 彰/寶 月 圭 吾/小 西 四 郎 編」としてありますが、森末氏と寶月氏には本巻の担当箇所はありません。奥付を見るに、小西四郎(1912.7.14~1996.2.5)が「昭和10年東京大学文学部国史学科卒」で「東京大学史料編纂所教授」だった他は、新藤氏が「歴史教育者協議会員。昭和31年法政大学文学部史学科卒」、那須氏が「法政大学工業高等学校講師。昭和33年法政大学文学部史学科卒」、松尾氏が「法政大学・第一教養部助教授。昭和37年法政大学大学院日本史学専攻博士課程修了」と、法政大学出身の若手研究者が分担しています。小西氏が法政大学に出講していて、その教え子たちだったのでしょうか。
 5~15頁「目  次」、5頁(頁付なし)扉。15頁の裏は白紙。
 次いで中扉「生 活 史Ⅲ」。
 1~109頁、新藤東洋男「第一章 資本主義成立期の国民生活/――明治前期を中心にして――
 110~216頁、松尾章一「第二章 日清・日露戦争下の勤労大衆の生活」
 217~388頁、那須良郎「第三章 独占資本の進展と国民生活」
 389~462頁、小西四郎「第四章 戦時下の国民生活」+
 昨日問題にした引用について見て置きましょう。すなわち、第三章の217頁2行め~245頁「第一節 独占資本の確立と社会生活の変化」の、225頁3行め~238頁15行め「Ⅱ 第一次世界大戦下の国民生活の条件」の6目め、234頁3行め~238頁15行め「大戦景気下の国民生活の破綻」に、237頁11~15行め、

 それが準教員や女教員になるとそのひどさは一層だった。今井誉次郎は『大正九年、わたしが高等二年を出て、/すぐ代用教員になつた時、その月給は九円でした。』『母が〝お前の給料は一日に米一升だ〟と云つたのを覚えてい/ます。』、河崎ナツも『わたしの知っている女の人に五つぐらいの女の子のある人が、よく〝食えん、食えん〟 とい/っていましたが、これはほんとうに給料が九円だったのです。だから筆づくりの内職を夫婦でやつていました。』/と、生活をなげいていた。

とあります。今井氏の証言は湯沢雍彦『大正期の家族問題』に採られていないようです。河崎氏の証言ですが、那須氏の地の文では本人が嘆いていたかのようですが知人の発言の紹介です。那須氏が典拠を示していないので湯沢氏は参考文献に「河崎ナツの発言、‥‥」と云う示し方をしたのでしょう。
 そして、246~297頁5行め「第二節 独占資本の展開と都市中間層」の246頁2行め~252頁5行め「Ⅰ 膨張する都市生活」の1目め、246頁3行め~249頁1行め「ひろがる地域格差」の後半、248頁3行め以下、

 都会の華かな消費文化との格差は、日常生活の意識にも大きな影をなげかけはじめた。大正十三年頃、新潟の農/村青年青木純二は東京朝日新聞の鉄箒欄に投書して『嫁が欲しい』と叫んでいる。
 『越後の農村や漁村に一度来て見るがよい。一人だって若い娘は居ないのだ。居るのは梅干婆さん許りなんだ。/若い女は続々と他国に出稼に行く。大部分は〝会社者〟即ち女工さんになって信州・群馬、さては名古屋にまで出/かけて行く。さなくば有名な〝色を売る白粉の女〟となって出かけるのである。村には若い女は地主のお娘さん位/より見ることが出来ない。おれ達見たいな男の寂しさったらない。夏が来ても盆踊も男ばかりでは面白くない。そ/れは我慢するとしても一体おれ達の嫁はどこから貰えばよいのだ。おれは嫁が欲しゆうてたまらないけれど、水呑/百姓には来てくれる女がない。そうだろう村にさえ若い女は居ないんだからな。出稼ぎして居る女達がたまに村に/帰っても、もうすっかりハイカラになって、七三髪を結うと安香水の匂いをプンプンさせて、おれ達には色眼もつ/かって呉れない。尤も〝枯すすき〟や〝安来ぶし〟などという唄は教えて呉れたがな。そして都へと帰っていって/村など振かえってもみない。村の若い男の寂しさったらない。おれは嫁が欲しいがどうすればいいのだ。おれの村/で女工にいった娘と夫婦になれずに死んだ男がある。隣の村では放火もした。隣村では人殺しもあった。……さな/くば、みんな若い女の居る都会に出て行く。この分では今に村には若い男もいなくなるだろう。女工尊い仕事だ/と県の役人は奨励遊ばす。農村の青年は品性を上せよと仰っしゃる。だが事実はどうだ。農村の疲弊も農村の衰亡/も百の議論よりも一つの事実が一番適切に語っている。あゝおれは嫁が欲しいが来る女もない。おれも村を出よう。/若い女の居る都へ出よう。県の役人達よ、本当の農村を見てくれ。そしてどうにかして呉れ。おれは寂しい。村の/若者は寂しい。』十三年といえば、戦争景気が次第に後退しつつあった頃であるのに、農村青年は都会を向いてい/【248】る。

とあって、湯沢氏はこれに拠っていると見て誤りないでしょう。
 巻末は左開き(横組み)の「附   録」が12頁、1頁(頁付なし)扉、2~8頁「索   引」は大まかなもので人名は殆ど採られておりません。3列で、8頁右5行めに「嫁が欲しい…………… 248」とあります。
 さて、問題があるのは「大正十三年頃」を「大正一三年」と決め付け、かつ初出を確認していないことです*1。そして「新潟の農村青年、青木純二」と云うのも那須氏を踏襲しているのですが、これは当時新潟県高田市に在って、具に農村の状況を見ていた青木氏が、得意の小説ばりに書いて見せた農村レポートと云うべきものでしょう。「鉄箒」欄は「朝日新聞」の「声」欄の前身の投書欄ですが、必ずしも一般読者の投稿に限らなかったようで、そこで敢えて投書めかして書いたのかも知れません。落ち着いて図書館に行けるようになったら早速探して見ましょう。――1月26日付(147)に挙げたように、青木氏は大正13年(1924)から昭和7年(1932)に掛けて、農村レポートを幾つか発表しています。そのうち「実業の日本」30巻9号(昭和2年5月)に掲載された「若い女を奪はれた農村」が、この「嫁が欲しい」と同じ内容を扱っているのではないかと思われます。
 ちょっと、吉幾三俺ら東京さ行ぐだ」を彷彿とさせる(?)ところがあります。(以下続稿)

*1:朝日新聞記事データベース「聞蔵Ⅱビジュアル」に「明治・大正紙面データベース」が追加されたのは『大正期の家族問題』刊行直前の2010年4月ですから、簡単に検出する訳には行かなかったでしょうけれども、「東京朝日新聞」は大正の当時から縮刷版を刊行していましたので、閲覧・検索はそう難しくなかったはずです。