瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

八王子事典の会 編『八王子事典』(15)

・相原悦夫『春秋一会・私の人ごよみ』(6)
 最後に「著者の横顔」の最後、11節め「最後に田原さんとの出会い」すなわちかたくら書店・田原勘意との交遊について述べたところを見て置こう。
 前半、338頁7行め~339頁5行めは知り合う切っ掛けについて述べている冒頭、338頁12行めまでを抜いて置こう。

 田原さんとの出会いは田原さんが八王子に移ってくる以前、昭和四十七年に遡る。当時、/三鷹市の基本構想策定作業に携わっていた時、基本構想策定のための懸賞論文を募集した/ところ、田原さんは応募されたことがあり、私は応募作品の中で、「田原勘意」という名が/記憶に残ったまま、三年が過ぎることになる。
 その後、田原さんは片倉台に書店を開業、「かたくら新書」を発行、私は原島昌広先生著「八/王子の気象」を購入した時、奥付に「田原勘意」さんの名を見て、【338】


 三鷹市基本構想(第一次)の議決は昭和50年(1975)3月で、昭和47年(1972)にはこれに市民の意見を反映させるための市民会議「まちづくり市民会議」が発足している。三鷹市総務部基本構想策定室 編『三鷹市基本構想策定のための研究 1973』(昭和48年・三鷹市・163頁)を見ればこの懸賞論文についての記述もあるのだろう。
 さて、それから「三年が過ぎることになる」と云うのだから、相原氏がかたくら書店の出版物を購入して再度「田原勘意」の名を目にしたのは昭和50年(1975)と云うことになりそうだが、1月29日付(01)に引いたUTR不動産のブログ「八王子見て歩記」の2014年03月18日「かたくら書店(後編)」に拠れば田原氏が八王子市片倉町に転居したのは「昭和52年ころ」でそれから脱サラしてかたくら書店を開業したのは昭和53年(1978)2月28日である。かたくら書店新書の刊行開始は昭和54年(1979)9月、原嶋宏昌(1928生)のかたくら書店新書3『八王子の気象』は、未見だが図書館OPACや「日本の古本屋」に拠ると昭和56年(1981)8月刊行である。そうすると、実際には10年ほど経った頃と云うことになるので、「三年」と云うのは何か勘違いしているとしか思われない。
 しかし、新書名・著者名それから刊年まで間違えているのはどうしたことだろう。相原氏がこう書いたのだとしても、版元として、田原氏が訂正しないといけなかったのではないか。本書も、2月3日付(06)2月5日付(08)に見たように一読して分かるような間違いが改訂版でも訂正されないままになっている。残念ながら校正が相当甘いと云わざるを得ず、他のかたくら書店刊行物についてもこの点、注意を要するように思う。
 後半、339頁6~13行め、

 六十年には例の「八王子事典」で馬場喜信さんや柴田隆行さんらとともに田原さんの仕/事をさせていただくことになるが、個人的にも時間つぶしに会う機会が多い。三十年を超/える付き合いであるが、田原さんの八王子の町への思いは人一倍、それ以上に強く感じら/れる。五十冊を超える「かたくら新書」の実績はそれを如実に語っている。そして、その/思いは今なお続いている。私はその熱意に応えなければという気持ちもあり、今回、本書/の執筆となったのである。
 田原さんはカタチとして残し、後代を担う人たちに伝えていこうという意思の強さが話/に、行動にみられる。それが田原さんの原点となっているのである。


 ここでは『八王子事典』を昭和60年(1985)としている。これは①初版「はしがき」②改訂版「初版はしがき」に合致するが、2月28日付(13)に引いた「馬場喜信」条の記述と矛盾する。2月27日付(12)に引いた「柴田隆行」条の冒頭にも昭和62年(1987)とあった。この矛盾に関しては、ない知恵を捻り出して理解しようとしてみたが、こうなってはちょっと解釈のしようがない。
 それはともかく「三十年を超える」とあるが昭和56年(1981)刊『八王子の気象』が直接の切っ掛けだとしたら平成21年(2019)までで30年にならない。やはり出会った時期を昭和50年(1975)と勘違いしているようだ。本書や50冊を超えるかたくら書店新書の業績は「カタチとして残」るだけに、やはりきちんとしたチェックを入れる態勢を整えて欲しかった、と、今となっては詮無いことながら、思うのである。(以下続稿)