瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

道了堂(15)

朝日新聞東京本社社会部『多摩の百年』下(2)
 昨日の続き。道了堂についての記述があるのは、2章め「横浜往還」の最後の8節め(53頁下段6行め~56頁上段)「名残とどめる道了堂」である。しかし、この節のメインではない。この章の副題「――夢の跡」を象徴する存在として、最後に添えられているだけである。55頁左上の写真の下に横組みで小さく添えられたキャプション「鑓水商人の夢の跡・廃屋の道了堂」がその意図を明確に示している。本文を見て置こう。55頁下段13行め~56頁上段12行め、55頁下段(7行め~21行め)の字数が少ないのは写真が上部に割り込んでいるため。

     *    *
 石段を登りつめると、からみ合った/雑木の間を通して、荒れ果てた堂が現/れる。道了堂である。不気味なほどの/静けさだ。半分に折れた永代祈祷*1の/碑、足がとれ、後ろ向きになっている/地蔵。お堂は、天井板まではがれ、半/分抜け落ちた床の上に、欅*2作りの文庫/だけがころがっている。昭和三十八/【55】年、堂守をしていた老女が、流れ者に殺されてから、堂は/見捨てられたままだ。明治二十六年に描かれた絵図では、/急傾斜の回廊がお堂と庫裏をつなぎ、境内は、満開の桜が/匂*3うばかりである。標高二一三メートル。多摩丘陵の最高/峰大塚山に位置した道了堂は、十二州を見渡すことがで/き、八王子はもちろん、江戸、近県からの参詣客が絶えな/かった。明治七年、鑓水の生糸商人たちが、永泉寺別院と/して開いたこの道了堂は、時代に乗ろうとして乗り切れな/かった男たちの夢の跡である。お堂の裏へ回ると一望のも/とに八王子市街が見渡せる。しかし、かつて男たちの夢を/のせた「絹の道」は、すぐ下に見える団地造成であとかた/もなく消えている。


 道了堂の写真(9.4×6.7cm)は正面から撮ったもので、冬なのか周囲は明るく、網点印刷だけれども鮮明である。廃墟となった道了堂の写真は十数点見ているが、その中でも特に鮮明な部類に属する。屋根を支える柱はしっかりしているようだが、間の板壁・扉が落ちているので、向うまで見通せる。この、壁や扉がなくなっていることが、廃墟化した道了堂の写真を判読するときの難点になっていて、どの写真も屋根の下が暗くなって内部の様子が判然としないのである。それだけに堂の内部、天井板が落ち、床板が半分抜け落ち、文庫だけが転がっていると云う記述は貴重である。
 第二部「絹の道」連載時期、そしてこの「名残とどめる道了堂」の回の掲載日が分れば撮影時期を絞り込めるのだが、今は昭和50年(1975)から昭和51年(1976)に掛けての冬季、幅を持たせると早春までくらいと云う見当を付けるばかりである。日に照らされた屋根はしっかりしているように見えるが、向拝の上には落葉や土が何センチか堆積しているようだ。10年ほど後に撮影された写真を見るに、道了堂の屋根は向拝部分から崩落しているのである。
 永代祈祷の碑については、『呪われたシルク・ロード』など他の文献の記述を見る際に確認することとしよう。
 地蔵は特に断っていないが石仏だろう。現在、大塚山公園には座像と立像があるようだが「足がとれ」とあるから立像のようだ。すなわち、稲川淳二の怪談で有名になった「首無し地蔵」のことと思われる*4
 道了堂の堂守殺しについては、やはり『呪われたシルク・ロード』の記述を検討する際に詳しく触れることとしたい。
 明治26年(1893)に描かれた絵図は「武藏國南多摩郡由木村鑓水/大塚山道了堂境内之圖」と題する、東京都指定有形民俗文化財(昭和47年4月19日指定)小泉家屋敷の当主で、2節め「豪商を生んだ集散地」にも登場する小泉栄一が所蔵していた石版画である。これについても『呪われたシルク・ロード』もしくは小泉氏について触れる際に取り上げようと思っている。(以下続稿)

*1:ルビ「き とう」。

*2:ルビ「けやき」。

*3:ルビ「にお」。

*4:3月23日追記稲川淳二の「首無し地蔵」は座像の方であった。