瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

道了堂(16)

 昨日確認した『多摩の百年』掲載の写真を見ていて、状態が似ていると思ったのが、次の本に載る写真である。
・八王子の今昔刊行会 企画・編集『市民の写真集 続 八王子の今昔 ――いま見つめたい昭和の八王子――』2012年9月20日 印刷・2012年10月1日 発行・定価1800円・揺籃社・183頁・A4判並製本

 もちろん『続』とあるからには「続」でない『八王子の今昔』があるので、私はシリーズの場合、なるべく関係ない巻も借りて来て一通り内容の確認をすることにしているのだけれども、大きい上に全頁アート紙で重いので、道了堂の写真が載っていない*1「続」でない方は借りて来なかった。
 横組み左開きで1頁(頁付なし)扉の標題・副題は縦組み、以後もキャプションが一部縦組み。3頁「発刊にあたって」には「前写真集」の「増刷を重ねる結果」と「続刊に期待する声」が「多数寄せられ」たこと、「発刊目的」は「前写真集のあとがき」に述べたのと変わりないが、さらに新たな問題として「東日本大震災原子力発電所の大事故」に言及している。これは「2012年9月」付で「八王子の今昔刊行会 代表 藤岡 一昭」の執筆だが下に「(前八王子市職員組合執行委員長)」と添えている。
 編集についてより具体的に述べているのは、183頁の上半分、八王子の今昔刊行会一同「あとがき」でやはり「2012年9月」付である。14行め「市民」が「提供し」た「写真」は「その数、3000枚以上」で、5~38頁「第1帳 ならわし」120枚、41~72頁「第2帳 なりわり」117枚、75~106頁「第3帳 く ら し」106枚、109~138頁「第4帳 ふうけい」105枚、141~172頁「第5帳 こうつう」108枚の合計556枚が選ばれている。各帳(章)扉(頁付なし)には上部に大きく題、下半分にはその帳(章)に紹介した写真を9~10枚(第1帳と第5帳が10枚)少し重ねて並べて掲出している。なお、カバー表紙の写真(10枚)とカバー裏表紙の写真(1枚)については、カバー表紙折返しに掲出位置を示している。カバー裏表紙折返しは「既刊」として『市民の写真集 八王子の今昔/――昭和の八王子を振り返る――』の帯付書影入りの紹介。 各帳(章)の最後には例えば第1帳では39頁(頁付なし)「あなたがつくる今昔写真帖―ならわし編①」40頁は「②」で、各頁に写真を2枚貼付するよう指示している。すなわち1枚めとして「古い写真」もしくは「今の写真」、そして2枚めとしてそれに対応する「現在の写真」もしくは「10年後、20年後に撮影し」た写真を貼付する枠が作ってある。
 「あとがき」に戻って、17~20行め、

 今回は個々の写真に詳細な説明を付けない代わりに、郷土史家の沼謙吉先生に章ごとの解説をお願いしま/した。明快で簡潔な解説文は、昭和の八王子を理解するうえで大いに役立ちます。
 また、現在地写真の撮影は元市職員の伊東高雄さんに依頼しました。広い八王子を2年以上もかけて撮り/歩き、場所の同定が難しい写真は古い住居地図を引っ張り出すなどして調べてくださいました。

とあるように、各帳(章)の初めの見開きに沼謙吉「解説」が、節ごとに簡潔に纏められている。伊東氏の写真については2頁(頁付なし)「もくじ」の下部に、「むかしの写真/数千枚のなかから厳選。/粒子の粗い写真は可能な/限り修復しています。」の脇に「いまの写真/主な写真を現在と比較し/ています。必ずしも同じ/場所とは限りません。」を枠で囲って、斜めに添えている旨を示した「凡 例」がある。この凡例に薄く印刷して例示されているのが第1帳「解説」、7頁の下半分の「① 撚糸業を始めて人並の正月を迎えた親子4人/ 【大正2年(1913)正月・大和田町・元井正男】」だが、「凡例」によると「写真ナンバー(地図・年表に対応)」「キャプション/(写真提供者のコメントから作成)」「撮影年/(特定不可の場合は年頃・年代と表記)」「撮影地(現在の町名を掲載)」「提供者(敬称略)」である。そしてこれに、ゴシック体で下(枠の内側)に「現代のお正月。伊東家(平成23年(2011年))」とある「いまの写真」が添えてある。すなわち現在地写真を担当した伊東高雄の家の、御節料理を前にしての家族14人の集合写真で、①が4人だけ(若夫婦と女児、夫婦どちらかの母親)であるのに対して、随分賑やかである。「同じ場所」では、もちろんない訳だ。
 175~179頁「撮影地マップ」は左を上にして地域別に分けて175頁「中心市街地」176頁「大和田・小宮方面」177頁「加住・川口・恩方・元八方面」178頁「西八・浅川・高尾方面」179頁「由井・由木方面」撮影地を番号で示す。詳細なものではなく、各頁に「※地図上の番号はおおよその位置です」とある通り。
 180~182頁「八王子年表・撮影年順写真索引」は年表形式で和暦西暦八王子の出来事社会の主な出来事は1年ずつ分けられているが、最後の写真ナンバーは細かく1年ずつ配当して行ったものではなく、大正、昭和1桁、昭和10年代、昭和20年代、昭和30年代からは5年ごとに、そして昭和60年代と平成(9年まで)と大まかに、番号を帳(章)ごとに、収録順に並べている。時期的にカラーフィルムで撮影された写真も少なからずあるものと思うが、カラー頁はない。
 「あとがき」の下には3行分空けて「参考文献」11点、筆頭に「『八王子事典 改訂版』(八王子事典の会編・2001年・かたくら書店)」が挙がる。そして2行弱空けて「八王子の今昔刊行会」として「・八王子市職員等事業本部」と「・揺  籃  社」の住所・電話・HPアドレスを示す。代表が「前八王子市職員組合執行委員長」であるのも宜なるかな、である。裏は下部に奥付、上部には「本書の制作に当たりご強力いただいた方々(敬称略・50音順)」と「協力団体(順不同)」、前者には66名、1人めに「相原 悦夫」、48人めに「馬場 喜信」、56人めに「光石知惠子」と八王子事典の会メンバーの名が見える。写真提供及び撮影場所や内容の考証に*2協力したのであろう。本書を通覧した際、馬場氏と光石氏の名は写真「提供者」として度々目にした。
 さて、本の紹介で長くなってしまったが、ようやく本題に入ろう。――道了堂の写真(9.0×12.6cm)は第4帳「ふうけい」123~125頁「名 所」の節、[53]~[63]まで11枚(+いまの写真3枚)のうち125頁上右、下に縦組みで「[61] 絹の道にあった道了堂。朽ちる前の姿/ 【昭和49年(1974年)5月13日・鑓水・西山典明】」とのキャプションを添える。西山氏は奥付上の協力者連名の44人めに見える。壁が落ちた状態は『多摩の百年』掲出の写真と殆ど変わらない。向拝の上の堆積が若干少なく見える程度である。曇天だったらしく全体に暗いが、それだけに細部がよく写っている。堂内に『多摩の百年』本文にある「文庫」らしき木の箱だか棚だかのようなものが見える。左に「森閑とした道了堂跡には/礎石と碑が残るのみ(平成24年)」とのキャプションを下に附した「いまの写真」を添える。128~138頁「原風景」の節([72]~[105])の129頁中左に「[77] 道了堂近くで進む宅地造成」も同じ日付・場所・撮影者で、ほぼ平らに均された造成地を写している。重機が殆ど見当らず、あっても動いていないらしいのは造成がほぼ終わっているからであろうか。右に「びっしりと家が建ち並ぶ/(平成24年)」のキャプションを上に添えた「いまの写真」。同じ日付・場所・撮影者ではもう1枚、第5帳「こうつう」144~153頁「道路」の節(②~㊵)の153頁中右「㊴絹の道の碑、訪れる人をひっそりと待つ」とある、「絹の道」碑とその前の鑓水峠道を捉えた写真がある。これには上に「文字が見えづらくなた絹の道の碑/(平成24年)」とのキャプションを下に添える「いまの写真」が附される。道了堂への石段は写っていない。
 昭和49年(1974)5月13日月曜日にこれら3枚の写真(本書に採用されなかった写真も多々あるかも知れないが*3)を撮影した西山氏の写真は、他にも第1帳に11枚(⑧⑨㊼㊽㊾(51)(76)(100)(101)(102))、第2帳に12枚( [16][29][30][46][47][48][50][51][66][67][68][69])が採用されており、一番古いのは昭和42年(1967)11月5日撮影、そして第3帳に1枚だけ採用されている、83頁中「㉑虹鱒のつかみどりを楽しむ長房団地の皆さん/ 【昭和51年(1976年)7月18日・長房町・西山典明】」が一番新しい。どうも、この頃(以前から八王子在住在勤だったのが)都営長房団地に引っ越したらしい。すなわち、神奈川県全域・東京多摩地域の地域情報紙「タウンニュース」の八王子版:2015年9月10日号掲載「防げ孤独死、呼び込め若者高齢化 「長房」の取り組み」に、

‥‥。長房地域にある都営長房西アパート連合自治会の会長西山典明さん(74、長房町在住)は目を丸くした。西山さんは50年近くこの団地で暮らし、連合自治会長は2度目の経験。‥‥

と記事になっており、近影も掲載されている。昭和15年(1940)か昭和16年(1941)生で平成27年(2015)に「50年近く」と云うのであるから鑓水の写真を撮影した頃は入居前、そして団地の行事を写した第3帳㉑を撮影した頃に、入居したのであろう。(以下続稿)

*1:6月30日追記】これは誤認で6月30日付(90)に述べた通り『八王子の今昔』にも「道了堂」の写真が掲載されていた。

*2:【6月21日追記】「の」と誤っていたのを「に」に訂正。

*3:西山氏以外に道了堂の写真を提供した人があったかも知れない。なかったかも知れない。あったとすれば西山氏の写真が最も鮮明であったと云うことであろう。しかし、廃墟になる前の道了堂の写真はなかったようだ。