瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

道了堂(131)

・村下要助『生きている八王子地方の歴史』(7)
 前回見たように村下氏は堂守・浅井としの娘に会って話を聞いているはずなのだが、残念ながら道了堂について具体的な記述を残していない。年齢的に浅井としが堂守を務めていた頃に参拝していてもおかしくないのだが、そういった回想もなされていない。
 道了堂について少々纏まった記述があるのは、11月5日付(128)に見た「いろいろな話」253頁10行め~258頁2行め【31】「絹商人の〝やくざせがれ〟」である。まづ冒頭から254頁5行めまでを抜いて置こう。

 鑓水絹商人は、当時加賀の廻船問屋と並ぶほどの勢いであったという。この中に一人たいへん贅沢/をしたのがいる。よくいう成上り者を忠実に実行したのだ。東京吉原の大門*1を閉め切ってあそんだと/いう。私にはそのことの意味がよくわからないが、何んでもたいへんなことだそうだ。いま吉原の入/口に大きな石の門が立っているそうであるが、この人の建てたものだということである。いちど見た/【253】いものだ。
 さて、この商人は商売がうまくゆき、やくざっ気でもあったのであろう、その人の男子*2に法のない/ぐれ*3ができだ。女にだまされる、博打に夢中になる、喧嘩はするの、どうしようもない野郎であった/ようだ。そんなふうだし親父も子供にええかげん*4であったのではないか。よく親父から金をせびって/いた。ええかげんにいやになった親父はよく鳴っ飛*5ばし始めたという。‥‥


 この後、村下氏は土地の方言でこの商人が伜を勘当したときの台詞を想像して述べている。その後、辺見じゅん『呪われたシルク・ロード』に取り上げられた、八木下要右衛門の刺殺事件について、親父の台詞や心情を想像して書き、15行め~255頁3行め、

 だれだかわからなかった。たぶんぐれ出した伜であったろうと伝わっている。表から戸板ごと突き/さした刀に、おやじは一命を落してしまった。(姓名はよくわかっているが、特に名を出しません)/【254】その後うたがいを持たれた伜の裁判記録の写しが、鑓水のいまある会館の戸のしまる棚に入っていた/そうであるが、戦争中紙の少ない頃だと思うが、だれかがべんじょっかみ*6か何かに持ってちゃったと/いう。(この便所紙は地元の小泉先生からきいた話である)。


「小泉先生」は辺見氏にもこの八木下要右衛門の一件を伝えた小泉栄一である。
 続きを抜いて置こう。255頁4~12行め、

 私は二十何年か前郷土の歴史に興味を持ちはじめ、手に入れた資料、八王子物語、新編武蔵風土記/稿、武蔵名勝図会、新編相模風土記稿などであった。その他神田の古本屋へ行って買い、本をたより/に見てあるいたものである。だが自分でも不思議にしていたことがあった。鑓水の道了堂が、どの本/を見ても載っていないことであった。だからいつもあんな山の上じゃあだれだってわからなかったん/だんべえなあ、と一人であきらめていた。何んどもそう思った。不思議だなあ、すぐ下の我眼*7谷戸/のあんな小っちゃな弁天様も出ているのになあ、まったく変だなあと、何年も気にしつづけていた。
 いま一つ不思議があった。川口のつまり*8にある今熊神社へ上*9ったときだ。今熊社は高いところにあ/る。何合目とかいう石が立つ。八合目くらいになると、視界が開けてきて気色*10がいい。『武蔵名勝図/会』にある今熊社をそのまま載せてみる。


 以下2字下げで引用、ここに今熊山が呼ばわり山としてその霊験から信仰を集めていたことが見えるが割愛する。そして256頁13行め~257頁6行め、

 何時だったかもう二十年はたつと思う。正月四日の日のような気がする。リクサックを背負った高/校生くらいが四、五人前後にいた。遠くの方で「やあぽー」などときこえたときもあった。穏かな、/むしろ寂しい感じの日であった。頂上へ登る階段がある。何段だったか三回行ったのにおぼえていな/い。【256】
 階段の左手に石で立ち並ぶ手すりがわりの柵がある。名前が刻み込まれているのでよくみて上り下/りした。「何んでこんな所に鑓水の人の名なんかあるのだろう」と思った。不思議ながらすぐわかっ/た。
 「あっ、かわいそうに、たぶん、ここの家の子供か誰か、行方不明になって、おそらく大変困った/んではないか、ものなど取られたくらいでこの石もあるまい、何んであんな鑓水のびんぼう*11している/ような片田舎の人ががこんなに高い山の上へ、だいたいいくらかかったか、大金かけてなんだろう」


 普通こういうことは書かないものだが、村下氏は自分が無知であったこと、そしていつ気付いたのかをあけすけ書いているところが甚だ宜しい。「不思議ながらすぐわかった」とは、当時の村下氏は鑓水は「びんぼう」だと決め付けるくらいで、鑓水絹商人の知識もなかった訳だから、「鑓水の人の名」が刻まれていることが「すぐわかった」ことが「不思議ながら」と云うのであろう。
 もちろん、すぐ前に鑓水や鑓水商人を持ち上げることに否定的な【29】「鑓水絹商人」【30】「シルクロード夜話」を書いていて、本書執筆時の村下氏は独自の見識を備えているのだけれども。そして次のように反省の弁を述べつつ、この話を纏めるのである。257頁8行め~258頁2行め、

 文化文政時代に調査された本をもとにあちこち歩いていたものだから、明治八年春、片倉・釜貫谷/戸上、由木鑓水上の峰へ道了堂ができたのは、塩野・植田など知るはずはない。道了堂の載っていな/いわけはその頃まだ私は知らなかった。絹街道としてこの道が盛んであったなど知ったのも、たいへ/んはずかしいが昭和四十二年頃であった。むろん道了堂が明治八年春、浅草花川戸から移ってきたと/いう話も一緒であった。
 四十二、三年以後に今熊へは上っていない。だが階段の手すりに見る石柱何本かは、ちゃんといま/でもあるはずだ。「武蔵国多西郡鑓水村何々何々々」と刻み込まれているはずだ。一本でない、何本/か建っている。明治何年とも刻み込まれているかも知れない。なんとあわれな馬鹿な話じゃあない/か、末に殺されると知っていたら、こんな草深い所の山上へ、なんで願などかけに来たのか、大*12い金/かけてよう殺される奴を呼び寄せるとは、親馬鹿たあこんなものかなあ、かわいそうじゃあねえかよ/【257】う。実子に殺されるなんて。武蔵国多西郡としたが、または、武州多西郡だったかも知れない。見て/きたらおしえてください。


 塩野(適斎)植田(孟縉)は「文化文政時代に調査された本」の著者。――随分捩れた文章だが、妙な勢いがあるので云わんとするところは分ってしまう。
 それはともかく「二十年」前として、昭和38年(1963)には「八木下要右衛門」の名前は知っていて、そして鑓水商人と道了堂の縁起を知った昭和42年(1967)頃にも見ていると云うのだから確かなのであろう。別に勘当した伜を「呼ばわる」ために建てたのではないかも知れないが、村下氏の中ではそのような筋書きが出来て、深い同情と哀悼の意を自分の普段使っている言葉で述べるのである。
 と云う訳で、本書には道了堂の記述は殆どない。「絹街道」についての、「絹の道」命名者・橋本義夫を批判するような記述にも触れて置きたいところだけれども、いよいよ関係ないことになってしまうのでこの辺りで一旦切り上げることにしよう。(以下続稿)

*1:ルビ「だいもん」。

*2:ルビ「こども 」。

*3:「ぐれ」に傍点「ヽ」打つ。

*4:「ええかげん」に傍点「ヽ」打つ。

*5:ルビ「な つ と 」。

*6:「べんじょっかみ」に傍点「ヽ」打つ。

*7:ルビ「が げん」。

*8:「つまり」に傍点「ヽ」打つ。

*9:ルビ「あが」。

*10:ルビ「きしよく」。

*11:「びんぼう」に傍点「ヽ」打つ。

*12:ルビ「でか」。