瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

平井呈一訳『吸血鬼カーミラ』(2)

・21頁6行め「一九一九年に、……」とあるが、1861年発表だからこの設定はあり得ない。かつ、作者ジョゼフ・シェリダン・レ・ファニュの生没年(1814〜1873.2.7)及び発表年からして、「一八一九年」は早過ぎるような気がしたのだが、原文を確認するに「In the year 1819,」とある。
・55頁14行め、2箇所「曾祖父」の「曾」の字体が変。
・127頁4行め、「工風」にルビ「くふう」とあるが、ルビなしの「工夫」ではいけないのか。
・142頁8行めからの段落、

 ころは一七九四年のこと、さる准男爵の弟で、サー・ジェイムズ・バートンという人が、ダブ/リンへ帰ってきました。この人は長く海軍に勤め、アメリカの南北戦争中は、帝国巡洋艦の一隻/に司令官として搭乗し、そうとう殊勲のあった人であります。年は四十二、三歳。……

とあるが、1751年生として、もちろんアメリカの南北戦争(1861〜1865)のはずがない。この場面、原文では「the American war」となっており、時期的にもアメリカ独立戦争(1775〜1783)と見るのが良かろう。少々訳文に不安を覚えさせられる。
・147頁3行め「……、足かずしにて十歩と歩くか歩かないうちに、……」は「足かずにして」であろう。
・194頁15〜19行めの段落、

 バートンは、この新しい愛玩物のおつきあいは、そもそもの最初から、不思議なくらい烈しい/嫌厭の念をもってあしらっていました。そんなものが身近にいるということが、なんともかれに/は我慢がならないことなのでした。じっさい、おかしいくらい、ふるふる嫌いで、あまつさえ、/恐がってさえいるようなふうでした。その嫌い方をげんに見たことのない人は、まさかと思うほ/どの、それほどひどい嫌い方だったのです。*1


 愛玩物はフクロウで、以後の展開にも絡んでくるのだが細かいことは略す。ここで気になったのは「ふるふる嫌いで」である。ネットで検索しても出て来ない。そこで『日本国語大辞典』第一版(縮刷版)を引っ張り出して見た。第二版を見るべきなのだけれども。

ふる-ふる 【副】[方言]心から忌みきらうさま。「あの人ばっかりはふるふる好かん」福岡県博多906 壱岐044

とある。意味はこれで合っている。九州北部の方言らしいが、平井氏と九州との関係は調べていない。これなどは、訳者の承諾はもう得られないが、差し替えた方が良いような気がする。「ふるふる」では分からぬ。
・229頁10行め「 やがてハーボットル判事が、まもなくロンドンにもどってきました。……」は、「やがて」か「まもなく」のどちらかだけでいいのではないか。
・287頁8〜16行めのカーミラの台詞「ねえ、あなたの心は傷ついているのね。わたくしが自分/の力と弱さのどうにもならない法*2に従っているからといって、薄情な人間だなどと思わないでち/ょうだいね。……」の「わたくしが自分の力と弱さのどうにもならない法に従っている」は「わたくしが自分の力の弱さとどうにもならない法に従っている」ではないのか。
・291頁19行め〜292頁1行め、カーミラの台詞「まあ、あの調子っぱずれな声!。/わからないの、あなた」の句点は空白にすべき。
・377頁9行め「“Schalken the Painter”(「シャルケン画伯」本集収載」)」鍵括弧閉じが1つ余分。
・377頁13行め、「 一八四四年、ジョゼフは三十一歳で妻をめとりました。」とあるのだが、374頁7〜8行めに「 ジョゼフ・シェリダン・レ・ファニュは、一八一四年にアイルランドの首都ダブリン市で生ま/れました。」とあるから、西洋人の年齢を(満年齢ででなく)数えで勘定していることになる。
・380頁1行め、「今だに」は確かに「今+だに」が一語化したものだから間違いではないが「未だに」でないと落ち着かない。というか、(引用は略すが)この文脈なら「今だに」は削除した方が良い。

*1:ルビ「けんえん」。

*2:ルビ「のり」。