瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

山本禾太郎『小笛事件』(2)

 昨日、TVドラマ版「雪冤」の不自然な感じにやたらと拘泥してしまったのは、山下氏の指摘する「『小笛事件』の謎」と同じものを、いや、山下氏の指摘以上に、感じているからである。
 が、別に犯罪マニアという訳ではないので、実際の捜査・鑑定・裁判がどんなものだか、TVドラマと新聞報道程度の知識しかないので、せいぜいがそのレベルの物言いなのだけれども、どうも、筋を引いてそれで納得出来るか一応考えて見ないと落ち着かないのである。例えば小説でも、書かれていない部分(と一部、書かれている部分)がどうも腑に落ちないので『小さいおうち』についてあれこれ書いたのもそうだし*1、事故についても何処に原因があって、何が切っ掛けになって、どのように経過して、最終的にどうなったか、三河島事故鶴見事故は新聞や写真などを見比べて自分なりに検証して見た。資料調査の合間に息抜きの道楽としてやったので、特にメモも取らなかったが、鶴見事故については記憶に基づいて少し記事にして見た。何かの切っ掛けで引っ掛かると、小説だろうが事故だろうが事件だろうが、自分なりの筋を通して見ないではいられないのである。

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 続きは『京都の女性史』を見てから書こうと思っていたのだけれども、山下氏の「『小笛事件』の謎」の194頁6行め〜200頁9行め「III」章を中心に、小笛事件の概要について、まず当初の見立――すなわち警察・検察側がどのようにこの事件を理解していたのかから、確認して置こう。
 なお、被告は無罪になったのだが、山下氏の指摘する通りこの事件は殆ど解明されずに終わっているであり、私はこの裁判の問題点と、事件の真相についての憶測を示そうと思っている、……示せないかも知れないが。とにかく、無罪になった被告に疑いを向けることにもなるので、ここでは実名では書かないことにして、しかし仮名は使いたくないので、姓のみのときは被告、姓名の場合は被告×太郎、名のみの場合は×太郎と書くことにする。
 被害者(?)の方は、事件の名称にもなってしまっているのでそのまま用いる。
 事件が発覚したのは大正15年(1926)6月30日(水曜日)である。「京大農学部正門前の杉の植え込みに沿った平松小笛の家」に「二十八日に預けた」2人の幼い娘を迎えに来た知人の大月シゲノが「どうもいつもと様子がちがう」ことから「百万遍の巡査派出所」に「午後一時」に出向き、中で十七歳の養女千歳、そしてシゲノの五歳と三歳の娘が絞殺され、女主人小笛が首を吊っているのを発見する。
 被告とされたのは、「京大生」時代に「小笛の素人下宿」に下宿していた男で、当時は「就職して神戸へ移って」いたが、小笛と、養女の千歳とも、情交を重ねていた。ところが「最近郷里の父親から縁談話が持ち込まれたことから、平松母娘との関係を清算しようと苦慮していたこと」が動機とされ、しかも「前夜も小笛宅に泊まったこと」、そして「小笛の三通の遺書の中に「チトセワアナタガコロスノデスネ」などと認めた紙片が発見されたこと」から検挙されるに至ったのである。遺書にはこの他「シヌユウテウソユウタライカヌヨ」とか「ワタシワサキニシニマスヨ」などとも書いてあった。
 一方の「小笛は下宿の経営に行き詰まっていたほか、娘の千歳が重い心臓疾患で回復の見込みが薄く、頼みとする被告からも再々別れ話が持ち出され」るという「八方塞がりの状態」にあった。
 28日(月曜日)の「早朝五時半ごろ小笛に見送られて出勤したとする同人の自供とは食いちがい、小笛の死亡時刻が胃中の消化物から二十八日午前零時から四時の間と鑑定されたことも」被告にとって不利で、「この結果、前途を悲観した小笛に無理心中を迫られた被告が四人を殺害したのは明白と思われたのである。」
 ところで小笛は首を吊っていたのだが「死体の頸部に現れた二条の索溝」つまり綱の痕が2条あったことから、小笛の首吊りも絞殺後に自殺を擬装して吊されたものと鑑定されたのだった。この他「現場に被告の名前の名刺が多数落ちていたり、小笛の遺書に被告三文判が捺印してある」ことなども「被告にとって不利な証拠物件」と見られたのであった。
 これが、裁判に於いて高山弁護士*2の奮闘により覆され、被告は無罪となるのだけれども、次に山下氏の挙げている疑問点、つまり『小笛事件』の謎について、眺めて見ることとしよう。(以下続稿)

*1:しかし無駄に長過ぎるのと、あまり好意的に見ていないせいか、殆ど参照されていない。

*2:高山義三(1892.6.15〜1974.12.6)は、2014年9月7日付「川端康成『古都』(12)」に触れたように、戦後、京都市長を昭和25年(1950)から昭和41年(1966)まで4期にわたって務めた。