・細目(4)
1月24日付(4)の続き。要領は1月22日付(2)に述べた通り。
第四章 新しい時代が開く前に
【1】盛り場銀座もおしまいだぁ 214(1~216・15)
215頁写真「昭和20年9月、敗戦直後の銀座4丁目の服部時計店(現在「和光」)前。いち早く接収さ/れて占領軍のPX(米兵のための売店)となったため、シャッターが開く前からGIがた/むろしていた。GIの靴磨きをしている子どもの多くは戦災孤児といわれた」
【2】ばらばらになった家族 217(1)
【3】汽車は走る見知らぬ土地へ 217(12)
【4】有栖川公園防空壕でのクラスメー卜の孤独 218(10)
【5】それでも少年は夢へとすすむ 220(3)
221頁写真、上「「江田島」の通称で憧れの的/だった「海軍兵学校」の写/真集。真継不二夫撮影 大/本営報道部監修『報道写真/集 海軍兵学校』。写真は改/訂版で昭和19年発行のもの」下は本文。
【6】爆撃破壊の跡をひた走る 222(8~223・15)
【7】汽車の窓から雪のホームに飛び降りて 224(1)
【8】日本のなかの異文化 225(9)
【9】おとなへの憧れが詰まっていた婦人雑誌 227(6)
229頁図版「昭和8年の銀座の女性たち」
【10】学校は工場に生徒は臨時工員に 231(8~222・15)
【11】真夜中の夕焼け……学校全焼の夜 233(1)
【12】水道がなかった疎開先の家 234(7)
【13】初めて食べたタニシの佃煮 236(10)
【14】もう一つの戦い 239(3)
【15】都会ふうは非国民 240(7)
【16】まだ大きかった地方都市との文化の落差 242(6)
【17】窮鼠一匹猫軍団を東京弁で撃退 244(11)
【18】戦争に負けた……虚脱感のなかですぐやったこと 247(6~14)
【19】お米とマッチの物々交換 248(1~250・13)
249頁写真「疎開先から帰るときマッチとお米を物々交換した友だちと駅・前写真館で記念撮影(右が著者)。そのときの会話「遊びにきてね」/「わたしが東京に行くなんて一生のうちにないと思う…」。子ども/にとって東京は感覚的にも遠い大都会のイメージだったのか……」
【20】いまわかる「江田島」に志願できなかった少年の鬱積 251(1)
【21】やさしい絹靴下から強いナイロンス卜ッキングへ 253(5~12)
【22】戻るも地獄の東京大食糧難時代 254(1)
【23】下北沢にはまだ農家が点在 255(4)
【24】ジャガイモをわけてくれた小母さん 256(13)
【25】生き生きと明るかった東京青山の敗戦直後 257(12)
【26】はやくも新しい時代の胎動が 259(6)
【27】銀座四丁目交差点交通整理にMPデビュー 260(6)
【28】五月二十五日青山炎上の夜 261(13)
【29】避難先「青山墓地」以来の再会 263(5)
【30】善光寺さんの夜店帰りは山陽堂が定番コース 265(2)
【31】火の海となった原宿竹下通りでの同期生の戦い 266(4)
【32】兄をたずね焼け野が原を神田まで歩きつづけ 272(7)
【33】時流れ街は時代を映す 276(11)
【34】表参道「空」から「色」へ 277(13~279・4)
以上である。次回から本文から窺われる著者の少女時代について、また参考文献、写真・資料協力者について確認して行くつもりである。(以下続稿)