瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(175)

・杉村顯『信州百物語』の剽窃本(1)
 民話や伝説の本は、先行する書籍から採っているものが多い。昔話や伝説は著作物ではない(はずだ)から問題にならない(はずである)。この素材に「再話」と称する書換えを行えば、それは著作物になる。いや「再話」だらけである。元は只の、生徒に語らせたり書かせたりした話を、妙な物語仕立てに「再話」すると著作物になってしまう。私が Disney をどうも好きになれないのは、昔話を素材にしながら著作権保護期間を70年に延長させたからである。全く矛盾している。全くの無から作り上げたのなら分からなくもない。しかし、白雪姫もラプンツェル雪の女王も元があるではないか。むしろ、妙な再話の方を規制するべきではないか、と思えて来るのである。少なくとも「民話」なる物が、大概は古老が語った昔話や伝説とは似て非なる物であることを、明確に分かるようにするべきだろう。
 しかし、大抵の民話集・伝説集は、先行する類書から材料を得ていても、それを正直に申告しない。古老から聞いたかのように偽装したがる。
 杉村氏は『信州百物語』ではそのような申告をしていないが、先行する『信州の口碑と傳説』では2019年8月23日付「杉村顯『信州の口碑と傳説』(02)」に引いたように、そのように誤解させるような文言を「自序」に述べていた。
 しかしながら実態は、2019年8月29日付「杉村顯『信州の口碑と傳説』(08)」の前後に述べたように、既存の伝説集から多く取材していた。未だ当ブログでの具体的な指摘は青木純二『山の傳説 日本アルプス』に止まっているが、当時の交通手段では2019年8月24日付「杉村顯『信州の口碑と傳説』(03)」の引用にある通り実地踏査は困難で、長野市にいれば県内各地の出身者を集めて話を聞く、と云うことも出来るかも知れないが、そんなことをしなくても既存の本から採れば良いのである。いや、当人もそう自己申告しているではないか。ただ、そっちにウェイトがあるように書いていないから、人から聞いた話を纏めたと云う方に読者がウェイトを置いてしまうのだけれども。
 『信州百物語』も2019年8月18日付(105)2019年9月1日付(106)及び2019年9月2日付(107)に見たように、少ない材料から安易に抄出した編纂物であった。尤も、2019年9月8日付(111)に見たように樺太での執筆であれば、書物に頼るのが当然である。いや、むしろ、長野市で執筆した『信州の傳説と口碑』がどのくらいの資料を駆使しているのか、それとも『信州百物語』と左程変わらないのか、が、杉村氏の口碑伝説への接し方を計る、検討課題となるであろう。
 そこで本題に入る。――そもそも『信州百物語』がそう手間が掛かっていない書物なのだと云う事情を割り引いた上で、この余り筋の良くない『信州百物語』からその大半を安易に、丸取りにしたような伝説集が存在するのである。何処にも『信州百物語』のような書物に拠ったことの申告がなく、自分で集めたかのように装っている。
 こんなことは、『信州百物語』が(少々不当なまでに)有名になってしまった今となっては、わざわざ注意しなくても良いかも知れぬが、うっかり引っ掛かってしまう人がいるかも知れない。かつ、このような伝説集は少なからず存在することにも注意を喚起して置きたいので、敢えて取り上げて、検討して見ることにしたいのである。(以下続稿)