瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

道了堂(21)

・新八王子市史民俗調査報告書 第2集『八王子市東部地域 由木の民俗』(2)
 章立ては前回引いた「凡例」の3項めにある通り10章で、119~168頁「第四章 住まいと環境」の、156頁下段~164頁上段5行め「六 暮らしの水利用」の、161頁上段5~16行め「(四)掘り抜き井戸の記録―堀口進さんの調査―」に、目次及び柱に339~354頁「巻末資料」として収録されている「掘抜井戸について」と「地行覚書」の解説がある。
 すなわち、161頁上段6~12行め「篭島参蔵さんからの聞き取り調査*1」に、

東中野の堀口進さん(昭和十年生)は、消えゆく掘り抜/き井戸の風景とその掘削技術を後世に残すため、昭和/四十五年(一九七〇)に前出の篭島参蔵さんから聞き取り調査を行った。」そ/の内容は「掘抜井戸について」と題する手書きの記録にまとめられている。/掘削の設備や用具の詳細な図も挿入されており、たいへん分かりやすい。巻/末資料には、堀口さんのご快諾を受けて、その記録を原文・原図のまま掲載/する(349ページ参照)

とあり、13~16行め「地 行 覚 書」には、

堀口進さんは、篭島参蔵さんからの聞き取り調査を行う中/で、篭島さんから「地行覚書」と題する冊子を頂戴した。/これは、篭島さんが掘り抜き井戸を突く際にうたった唄を書き留めたもので/ある。巻末資料にその歌詞を翻刻して掲載する(354ページ参照)

とある。354頁に「地行覚書(大正九年三月廿五日)」として5段組、鳶木遣と全く同類の歌謡である。
 「前出の」と云うのは、159頁下段3行め~161頁上段4行め「(三)掘り抜き井戸の職人とその技術」の冒頭、159頁下段4~13行め「大  塚  の井 戸 職 人」の前半の段落、159頁下段4~8行めに、

大塚日向講中の井上岩作さんは明治三十三年(一九〇〇)/ごろの生まれであり、同じ講中に住む「さんちゃん」こと/篭島参蔵さんと共に掘り抜き井戸の掘削を行っていた。参蔵さんは岩作さん/より一〇歳くらい年上で、他所の出身であり、若いころ修行僧と共に旅する/途上で大塚に居を構えたと伝えられている。

とある。明治23年(1890)頃の生れとすれば堀口氏が聞取調査を行った当時80歳くらいだったことになる。大塚は八王子市の東端、旧南多摩郡由木村の東端で大栗川の下流、大栗川の源流部の鑓水は由木村の西端であった。日向講中は大栗川の北側で清鏡寺、最照寺、八幡神社がある。南側は日影講中である。
 それはともかく、昭和10年(1935)生と云うことで、堀口進は次の本の著者であることが判明する。

 後者のAmazon詳細ページ等にある「著者略歴」に、

1935年(昭和10)東京都八王子市に生まれる。神奈川県公立中学校長を定年退職後オーストラリア・メルボルンのスインバン大学で日本語の指導(非常勤講師)。帰国後「堀口プレーイング・カード(トランプ)美術館」を設立

とあるが、堀口プレーイング・カード美術館は既に閉館してしまったようだ。東中野は大塚の西隣。
 巻末資料の349~353頁「掘抜井戸について」は手書き(横書きペン書き)の写真で「昭和45年2月」付。1頁めの下に「篭島参蔵氏」の写真に添えて、

篭島氏の家は元から大塚に住んでいたので/はなく父親が新潟より出て来たのだという。参/蔵氏は26~7才ぐらいから掘抜井戸掘りを始め/たという。
参蔵氏が由木村に掘った井戸は50~60ぐら/いに及ぶ。・・・・

と紹介しているが、159頁下段の紹介と齟齬があるようである。
 348頁に恐らく新稿の堀口進「開発に消えた掘り抜き井戸」と題する文章がある。15~21行め、

 多摩ニュータウン開発工事と同時に、私は昭和四十五年ころから由木村の原風景を/残すため村中の写真撮影を始めた。思い出の掘り抜き井戸も撮りたかった。しかし、/あれ程あった掘り抜き井戸の姿はなく、ただ松木の小さな池の傍に「ちょろ/\」と/今にも消えそうなたった一つの井戸があった。寂しかった。
 そのころ、偶然にお会いしたのが、村に唯一人残った掘り抜き井戸職人の篭島さん/であった。大変嬉しかった。篭島さんから掘り抜き井戸についていろいろ教えていた/だいたが、一つの伝統的な技術が失われることが残念であった。

と口絵写真撮影の意図について述べている。
 なお5~7行め、

・・・・。由木村の地形は西/高東低で、東端の鑓水は二〇〇メートル前後の丘陵を抱え、西端の大塚は八王子市で/最も低い海抜六三メートル、標高差は約一四〇メートルもある。・・・・

とあるが「西高東低」は良いとして「鑓水」が「西端」で「大塚」が「東端」である。堀口氏の原稿がこのような勘違いをしていたとしても編集に際して訂正しないといけないだろう。しかし、ここもやはり正誤表にも拾われていない。標高差はより正確には「約一五〇メートル」。
 下部には写真が3つ、キャプションは右「写真撮影に歩いていたころの堀口進さん」中「松木の掘り抜き井戸堀口さんのメモには「(昭和)45・6月現在 水がでている掘抜井戸は由木村中でこれが唯一のもの」とある」左「堀口さんが掘り抜き井戸について教わった篭島さん(左)」とある。
 ここまで確認したところで、ようやく口絵写真の「多摩ニュータウン以前の由木 ―堀口進写真ファイルから―」のvi頁[鑓水]について眺めて置こう。上から「板木谷戸・北海道」のパノラマ写真(4枚繋ぎ合せ)、これは前回触れた「新八王子市史民俗調査報告書 第2集『八王子市東部地域 由木の民俗』正誤表」の1項めに「口絵ⅵ頁 最上段」として「板木谷戸・北街道」と訂正されている。2段め左「板木谷戸」小泉家屋敷、右「諏訪神社参道」、三段め左「御殿山付近」は『呪われたシルク・ロード』に出て来る光華寮、右「中央に建設中の鑓水町会会館 右一里塚」パノラマ写真(2枚)、最下段左「ビルは多摩美術大学」子ノ神谷戸と大芦谷戸の間の尾根筋から撮ったらしい。そして右「道了堂」。
 3月25日付(19)に取り上げた指田徳司撮影の写真に近い時期のもので、背面の壁に空いた穴の形が一致するようである。より引いて撮っている。入口の階段の前(向拝の下)に指田氏の写真には見当たらない箱があり、どうも、堀口氏の写真の方が早いもののように思われる。撮影時期は夏のようだ。(以下続稿)

*1:ゴシック体の見出しは2行取り上下1字ずつ空けて、2行にわたる場合は行間を詰める。