瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

道了堂(75)

 昨日は何の縁も所縁もないのに戸板女子短期大学の八王子校舎が更地になっていることに引っ掛かってしまった。
・かたくら書店新書20『絹の道』(8)
 それでは昨日に続いて、道了堂の回想をもう1つ見て置こう。昨日見た尾崎正道(1946生)は道了堂が無住になってから訪れているが、「」の藤森治郎「⑤道了堂付近」は、それ以前の回想である。76頁1~13行め、

 今から二十年程前の道了堂付近は勿論まだ片倉台や北野台が開発さ/れる前で、道了堂からみると御殿峠から白山神社に向って丘陵の尾根/に雑木林を縫ってハイキングコースがあり、お堂も今のようなひどい/痛みようではありませんでした。庫裏のところにおばあさん(浅井と/しさん)が住んでいて、お堂に登る階段風の廊下も残っていました。/竹藪の下が畑になっていて野菜などを作っており、世田谷から移った/ばかりの私共は筍が魅力で無心したものです。井戸がないらしく(実/際は絹の道の碑の前の桜の木の下の方に使いものにならない井戸があ/る)中山に下りる道を通って運んでいたように思います。郵便屋さん/がこの坂道を赤い自転車でボヤきながら押して登っていました。中谷/戸に下りる道端に大きな杉木立があり、この根元に狸が巣くっていて、/当時この附近は田園がひらけ狩猟ができ、小綬鶏猟など楽しんだもの/です。ここから、鑓水への往還は全く以前と変りません、‥‥


 堂守の浅井としが殺害されたのは昭和38年(1963)9月10日なので本書刊行から遡ること23年前である。御殿峠は西南西、白山神社は北東に位置する。さらに野猿峠、平山城址へと尾根筋にハイキングコースが続いていた。
 堂守が普段どのような暮らしをしていたのか、存命中の記録・回想が殆どないので、良く分からなかったのだが、この藤森氏の回想により、庫裡に起居していたことが分かる。――堂守老婆殺しに触れた平成以降の文献、最近のインターネット情報など、堂守が道了堂で起居して道了堂で殺されたかのようなイメージで書いているものが少なくないようだが、再考を要するだろう。明治26年(1893)の石版画「武藏國南多摩郡由木村鑓水大塚山道了堂境内之圖*1」に描かれている、道了堂と子守堂・庫裡を繋ぐ廊下は、その70年後まで残っていたのである。
 畑については、戦前の昭和16年(1941)7月8日陸軍撮影の航空写真(532-C3-116)或いは昭和16年(1941)7月4日陸軍撮影の航空写真(C25-C7-237)、戦後の昭和31年(1956)3月15日米軍撮影の航空写真(USA-M379-63)等を見るに、前方後円墳のように樹林が盛り上がった大塚山の周辺には耕作地が多く、例えば南西斜面などは麓まで畑になっている。むしろ現代の方が森林が多いくらいである。
 藤森氏が「無心した」と云う「筍」は、5月23日付(60)に引いた小倉英明『私たちの由木村』及び5月19日付(57)に引いた打越歴史研究会の下島彬の著書『野猿峠』に見えていた、四方竹(方竹)のことであろう。
 この辺りの最高峰(とされていた)大塚山には四方から道が集まっていて、片倉町から鑓水へ抜ける神奈川往還浜街道・絹の道)の他にも、尾根筋を西へ御殿峠へと向かう道、尾根筋を北東へ白山神社野猿峠へと向かう道、東へ中山の宮ノ下集落へと谷戸を下っていく道等があった。郵便屋は「中山へ下りる道」すなわち中山の宮ノ下から登って来ていたようだ。「中谷戸へ下りる道端」は藤森氏の住んでいる打越町の中谷戸に向かう道で、白山神社への尾根の途中から北に分岐していた。(以下続稿)

*1:【6月29日追記】「鑓水」を落としていたのを補った。