瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

山本禾太郎「東太郎の日記」(37)

 昨日の続き。
 私は梅中軒鶯童『浪曲旅芸人』に見える山本桃村が「新青年」の懸賞小説に「窓」夢野久作の「あやかしの鼓」とともに二等入選して山本禾太郎として作家デビューする以前の山本種太郎(本名)その人に違いないと思っておりまして、喜利彦山人もこの説を支持していると思うのですけれども、浪曲界を去ってから大正15年(1926)に作家デビューするまでの経歴は、どうもはっきりしないのです。
 2015年12月12日付(34)に述べたように、山本氏が浪界から足を洗ったのは大正6年(1917)の5月頃、「妻の災難」の記述を信じれば大正6年7月には結婚して、以後出身地の神戸に定住していたことになります*1
・『現代大衆文學全集』第三十五卷『新進作家集』森下岩太郎 編輯(昭和三年十一月廿五日印刷・昭和三年十二月 一 日發行・非賣品・平凡社・1010頁)
 博文館「新青年」の初代編集長だった森下雨村(1890.2.23~1965.5.16)が編者を務めており、林不忘・山下利三郞・川田功・大下宇陀兒・久山秀子角田喜久雄城昌幸・山本禾太郞・水谷準・橋本五郞の10人の作品が集められております。口絵には覆面作家の久山氏を除く9人の顔写真が掲載されております。
 巻末、1010頁と奥付の間に「著 者 自 傳」が2頁(頁付なし)あって、10人が自分で書いた略伝が掲載されているのですが、山本氏は2頁めの上段13行め~下段4行め、

    山 本 禾 太 郎
 明治二十二年二月生れ。尋常小學校卒業後丁稚奉公。/紡績、護謨、電機、造船等工場の職工、其他數種の勞働/【上】に從事し大正十四年八月失業。現今にては神戶辯護士會/の仕事を爲しつゝあり。大正十五年六月「新靑年」の懸賞/に入選し、以来「童貞」「一枚の地圖」「小坂町事件」「あせ/びとばら」等三四編を發表す。

としており、昭和3年(1928)には神戸弁護士会で働いていたことが分るのですが、大正14年(1925)8月に失業するまでは「工場の職工」をしていたらしく思われるものの、具体的に「紡績、護謨、電機、造船」をどの会社で、そしてどのような順序で働いていたかははっきりしません。失業期間がどの程度であったのかも分かりません。ただ、大正6年に神戸に戻ってから直ちに工場で働き始めたのは、確かなようです。(以下続稿)

*1:2016年3月4日付「山本禾太郎「妻の災難」(1)」の続きを書こうと思っております。