瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

『三田村鳶魚日記』(01)

4月18日追記】「赤いマント」記事に使用する資料の確認と云うことで始めたのだが、赤マントに話が及ぶ前が随分長くなってしまった。これは別の記事にするべきだと思い直して、今更ながら『三田村鳶魚日記』に改称します。すなわち「赤いマント(172)」を「『三田村鳶魚日記』(01)」に改めます。記事名や番号のズレを修正した他は手を入れておりません。

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・『三田村鳶魚日記』(1)
 私も夏休み手帳の他、中学3年生の3学期、それから学部生から大学院生に掛けての10年余り、日記を付けていた。
 中学3年生のときの日記は、今は段ボールの中に埋もれていて俄かに読むことが出来ないが、これを書いたことで今でも当時の同級生たちのことを生き生きと思い出すことが出来るのである。学部生から大学院生までの日記はただの行動記録で、何時何分の何線の電車の何号車の何処に立ち、途中のビルの屋上にある電光表示の時計と温度計の数値やら、車窓から見下ろす水の色や施設の込み具合など、駅で下車してからは何坂を下って何坂を上って何橋を渡って何図書館に立ち寄って、大学では誰彼に会って、と、そんなことばかり延々書いている。だから学校や図書館に出掛けただけでも1頁分になるのだが、用紙はB4の感熱紙の裏側で、袋綴じにして(今、袋綴じと云うと何だか別の意味になるらしいが)何十冊にもなってしまった。
 当時私は父が退職するまでは目黒区、その後は横浜市に住んでいて、地下鉄サリン事件当日は学部卒業間際の春休みで、行かなくても別に怒られなかっただろうに都立日比谷図書館の返却日だったので、私は午後、わざわざ日比谷図書館に出掛けて、それからシャッターの下りた霞ヶ関駅の入口を見、日比谷駅から千代田線に乗って蛍光灯の付いた無人霞ヶ関駅を通過している。2013年3月21日付「鶴見事故(2)」の最後に触れた営団地下鉄日比谷線中目黒駅構内の脱線衝突事故のときは博士課程の春休みで、横浜から定期で、あの辺りは目黒区在住時、東横線の定期が切れている期間に地下鉄に乗る場合、中目黒駅まで歩いて東横線の分の運賃を節約していたくらいで、まぁ地元みたいなものだったから、運転していた東横線に上り下り何度も乗って、停車したままの日比谷線の上りと下りの列車を観察したのである。
 大きな事件や事故に遭遇したのはこのくらいで、他に何か目ぼしい記事があるのだかないのだか、そんなにはないはずで全てに資料的価値もなければ中学の日記のような読物としての面白みもない。別に付けていた読書記録と図書館利用記録と、1:10000地形図に書き入れていた行程と照らし合わせないと当時の行動を立体的に再現出来ないような代物で、もうそんなことをする余裕など私の余生にはなさそうだし、残念ながら当時の私には、今の私にそんなことをさせる魅力もない。それでも挟み込んだチラシや半券、それから日比谷線の事件・事故当時の駅に掲出されていた注意書きの写し(写真ではない)などにはそれなりの価値はありそうだから、そのうち実家の物置から引っ張り出して摘録を作りながら徐々に処分して行こうと思っているのである。
 確か、1年ごとに「丁丑日録」のように「干支+日録」と題してあったと思うのだが、総称としては「私の名前+日記」と云うことになるのであろうか。日記の題と云うものは、特に著者によって題名を与えられていない場合、それから複数冊あって1冊ごとに異なる名称が与えられている場合には総称として、「著者名+日記」との呼称が与えられることになっている。

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 三田村鳶魚(1870.三.十七~1952.5.14)の日記は『三田村鳶魚全集』(中央公論社・四六判上製本)の次の3巻に分冊されて収録されている。
・第廿五巻 日記(上) 昭和五十二年四月十五日印刷・昭和五十二年四月二十五日発行・445頁

 5頁(頁付なし)中扉に「日記(上)〈自明治四十三年/至大正十一年〉」とあるように、明治43年(1910)から大正11年(1922)までの13年分。
・第廿六巻 日記(中) 昭和五十二年五月十五日印刷・昭和五十二年五月二十五日発行・437頁 5頁(頁付なし)中扉に「日記(中)〈自大正十一年/至昭和九年〉」とあるように、大正12年(1923)から昭和9年(1934)までの12年分。
・第廿七巻 日記(下) 昭和五十二年六月十五日印刷・昭和五十二年六月二十五日発行・453頁 5頁(頁付なし)中扉には「日記(下)〈自昭和十年/至昭和十八年/昭和二十年/昭和二十三年/昭和二十四年/法華三昧〉」とあって、昭和10年(1935)から昭和24年(1949)までの15年のうち3年分を欠いているが、その後、後述するように昭和19年(1944)の日記が発見されている。399~444頁「法華三昧」は附録で、最晩年の未発表原稿。
 すなわち『三田村鳶魚日記』と云う標題で公刊された訳ではないが、一部に慣用に従ったこの呼称が行われているので、当ブログでも以下『三田村鳶魚日記』と呼ぶことにする。
 さて、烏山奏春のニコニコ動画「[ゆっくり妖怪雑話] 赤マントは日本初の吸血鬼である」に指摘されている『三田村鳶魚日記』の赤マントの記述は、4月4日付「赤いマント(170)」に見たように、第廿七巻に収録されている。次回、当時の三田村氏の状況を確認しながら、日記の記述を見て行くこととしよう。(以下続稿) 

赤いマント(171)

【4月10日追記】
 以下の内容については、先方より誠意ある回答を得て解決しました。
 記事については備忘と自戒のため、そのままとして置きますが、現在何の問題もなきことをお断りして置きます。

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 昨日のうちに主張したいところを述べ、今日から関係者と直接交渉に入ろうと考えていたのですが、長くなったので後回しにした続き。

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 さて、私が問題にしたいもう1点は、研究史を混乱させない、と云う点です。
 笹方政紀主宰の西日本化け物・妖怪愛好会の妖怪同人誌は、同人誌ではありますが笹方氏はクダンその他について史学誌や専門論集に論文を執筆し続けている人ですから、ただの書き捨ての気軽な同人誌ではなく、それなりの評価の要求を目指しているもののようです。4月1日付(168)及び4月2日付(169)に注意した、笹方氏の3月11日の tweet に見るように、当ブログを剽窃した烏山氏の論考も笹方氏によって高く評価されていました。
 もし、このまま烏山氏の論考を削除せずにこの妖怪同人誌が刊行されたとして、色々な問題が惹起されることになります。
 ――研究と云うものは、先行研究を全て踏まえた上でなされるべきとなっていますが、それは建前で実際にはそうなっていません。その辺りの事情は2015年10月18日付「試行錯誤と訂正」にも述べました。しかしながら私は、こういう作業をきちんとした上で、常に、誰が、何を、どこまで明らかにしたのか、を確認しそこを踏まえた上で先に進まないといけない、と思っています。
 ですから研究史、すなわち、誰が、いつ、どこまでを明らかにしたのか(しなかったのか)を混乱させるノイズを放置出来ないのです。
 こう云ったことは3月3日付「森類『鴎外の子供たち』(4)」、或いは2013年2月10日付「謬説の指摘(2)」にも述べましたが、研究者と呼ばれる立場の人たちにも案外無頓着な人が多くて困ってしまうのです。いえ、今回の一件は殆ど trap(陥穽)と云って良いでしょう。当ブログをここまで使い倒していることが隠蔽されていたために、笹方氏も全くの善意から感嘆してしまったのです。私はこのような人を欺くようなものを出してはいけないと思うのです。
 いえ、既にニコニコ動画の「[ゆっくり妖怪雑話] 赤マントは日本初の吸血鬼である」によって、私の厖大な時間と労力を要した資料探索が、烏山氏の業績(?)として喧伝され掛かっています。中でも、やはりニコニコ動画に吸血鬼関連の動画を投稿しているノセールの2月25日21:06 の tweet に、

赤マント騒動は実際には1936年じゃなくてもう少し後年だったのか…
 
たしかに日本初の吸血鬼だわこれは

とあったのは少々ショックでした。いえ「日本初の吸血鬼」云々は、私にとっては枝葉末節なので、当ブログを材料としたことを個々の資料ごとに明記した上で烏山氏が主張してもらって全然構わない。問題は前半です。
 何故なら、4月2日付(169)に言及した廣田龍平の 2018年9月22日18:31 の tweet に、ノセール氏も早くに like♡ をしていたはずだからです。
 この廣田氏の紹介から当ブログの「赤いマント」記事を辿ってもらえれば、昭和11年(1936)説は2013年10月24日付「赤いマント(3)」によって明瞭に否定されていることに気付くはずです。その後の記事でも折に触れ繰り返し繰り返し述べたように、昭和14年(1939)の新聞・雑誌記事の紹介、それらの記事には直前にそういう騒動があったことを注意していないこと(この点も烏山氏が自説のように述べていましたが)から、完璧に補強し得たと思っています。これら、その後集めた材料と合わせての一応の纏めは2014年7月11日付「赤いマント(139)」に書いて置きました。
 結局、どんなに精緻に作業を積み重ねても、きちんと見てくれる人は少ない。と嘆息せざるを得ないのですが、だからこそなおのこと、今回の烏山氏が当ブログの内容を自分の探索・見解のように述べていることを看過出来ません。
 既に笹方氏とノセール氏がそう勘違いした感想を述べています。私も知らずに烏山氏の動画を見たら同様の感想を持ったことでしょう。ただ私の場合は2013年の段階で当時の「報知新聞」や「國民新聞」までチェックしている個人ブログ「瑣事加減」とは何ぞや? と思って確認して、烏山氏が他人の褌で相撲を取っていることに気付いたかも知れませんが、その褌を所望してしまった笹方氏こそ飛んだ迷惑にぶち当たったと云えましょう。笹方氏が「発展させる余地」があると見た、大阪の赤マント騒動についても既に検証済で、紙芝居説が相当の根拠を有することも証明してあるのですから。
 少々話が逸れましたが、他人の発掘・紹介・考証した資料を、自分がそれをやったかのような形で発表されては、非常に困るのです。当ブログで何度も繰り返し述べたように、細かく時間を掛けて確認する余裕を持たない(余裕があったとしてもそこまでの手続きを踏もうとしない不注意な)読者によって、後追い説の方が喧伝されてしまう危険性を常に孕んでいます*1。このようなノイズは、積極的に排除されるべきだと私は考えています。
 こうなった上は、私も積極的に twitterYouTube なんぞに打って出るしかないのでしょうか。いえ、先行研究をチェックせず、それに敬意を払わない方に問題があるはずです。必要になればこの件限定で twitter をやらざるを得なくなりそうですが。
 或いはひょっとしたら、私の紹介した記事の全文を引用していないから問題ない、と(可能性は低いと思いますが)思っているのでしょうか。もちろん私にも引用した記事の著作権はありませんから、そこは初めから問題ではありません(多分)。私が問題にしたいのはプライオリティと研究の手続き上の倫理的問題で、これが非常に重大であると考えているのです。烏山氏がどういう人物なのか分かりませんが、研究者である笹方氏にはこの点について自覚的であって欲しいと願っています。

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 やはり昨日のうちに最後まで書いてしまうべきでした。1日の業務を終えて改めて書き始めたのでは、勢いが殺がれていることを感ぜざるを得ません。
 今後の展開ですが、――先に引いた笹方氏の tweet に対する烏山氏の返信 tweet に拠ると、続編投稿を匂わせていたニコニコ動画とは打って変わって、もう続ける意思がないかのようなので、『三田村鳶魚日記』は私が引き継ぎましょう。きちんと烏山氏のプライオリティに配慮した上で、十分背景にも注意を払った形で近々当ブログに取り上げることとなりましょう。(以下続稿)

*1:笹方氏及びノセール氏の tweet はそれぞれ、烏山氏の論考を知った当座のものですが、その後、何ともしていないところからすると当ブログを確認されていないようです。ですから、うっかり巻き込まれた立場だとは云え、ここで批判せざるを得ないのです。