瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(097)

・白銀冴太郎は杉村顕道に非ず(3)
 前回、根拠を示さずに少々過激とも取れる結論の一端を述べてしまった。
 これからその根拠を挙げて行くつもりだけれども、当ブログでは結論だけ述べて根拠となる資料の検討をやったのかやらなかったのか、曖昧にして置くようなことはせず、長くなっても出来る限りの検証をして置く主義なので、その後で結論を述べると残暑も終わってしまいそうである。そこで今回、先に結論の要点(現在気付いている見当)を述べてしまうことにする。
①事件のあった年の違い
 東雅夫昭和3年(1928)の「サンデー毎日」一頁古今事実怪談懸賞募集入選、白銀冴太郎「深夜の客」と、昭和9年(1934) 信濃郷土誌刊行会刊、杉村顕『怪奇伝説 信州百物語』所収「蓮華温泉の怪話」の作者を同一人物と見なした理由の1つに、両者が「奇妙な相似形」と評しても良いくらいに似ているにも拘わらず、何故か事件の起こった年だけ、「深夜の客」は大正3年(1914)であったのが、「蓮華温泉の怪話」は明治30年(1897)と違っていることがあるように思う。人の書いたものを「伝説集」に借用しただけなら何故、年を勝手に変えてしまったのかが理解しづらい。すなわち、杉村氏が設定を変更する権限を有する人物=作者であった、と云う発想になったものかと思う。
 しかしながら、実は明治30年(1897)とする、やはり「奇妙な相似形を成す」文献が、「深夜の客」と「蓮華温泉の怪話」の間に存在するのである。すなわち杉村氏は、この文献に依拠しただけなのである。
②「サンデー毎日」という媒体
 それから、「サンデー毎日」と云う、部数はそれなりに出て、全国展開していたにしても、出た当座に買って保存して置かないと、後で参照するのが難しい媒体に掲載されていたことが、もう1点、東氏が白銀冴太郎=杉村顕道と推測した理由として考えられるのではないか。すなわち、杉村氏は「深夜の客」が掲載された号を保存していて、『怪奇伝説 信州百物語』編纂に当たって、わざわざ引っ張り出してきたことになる。白銀氏が杉村氏だとすれば、後年『信州百物語』のような本を編むことになった際に、密かに1篇、雑誌に掲載された自身の創作(?)怪談を紛れ込ませることを思い付いた、と云うのもありそうなことではある。
 私は8月8日付(095)に引いた、2018年1月24日22:58の東雅夫の tweet の後半に見える『日本現代怪異事典』の「おんぶ幽霊」の検証の過程で、「蓮華温泉の怪話」ではなく「深夜の客」に酷似する話を、昭和31年(1956)刊の山岳雑誌「山と高原」、平成2年(1990)の山村民俗の会会報「あしなか」に、典拠を隠して(それどころか、併録した話には自分が地方で地元の人から直接聞いたかのような細工を施した上で)発表していた人物がいたことを突き止めた。これは剽窃の確認と云う結果となったせいか、随分骨を折った割に認めてもらえそうにない成果なのだけれども(苦笑)、加門七海が指摘する、現在も「蓮華温泉の怪話」と同じ話が登山家の間に語り継がれている事実の背景には、この「山と高原」誌の影響力があったのではないか、と私は勝手に思っているのである。いや、そうだろうと思う。
 それはともかく2018年12月3日付(073)に述べたように、「山と高原」と「あしなか」に剽窃して発表した人物についても、私は何かのきっかけで見た、自分が生まれた年の「サンデー毎日」と云う、戦後には稀覯であったろう雑誌に奇話を発掘したことを奇として、典拠を隠すことにも左程抵抗感なく自らの手柄のように使ってしまったのだろう、と好意的に解釈していたのだけれども、実は杉村氏が依拠したのと同じ、昭和5年(1930)に刊行された、山の伝説を集めた本にこの話は載っていたのである。――思えば安易な借用であった。
 それはともかく、これで従来「サンデー毎日」に依拠したと云う前提で進めていた「蓮華温泉の怪話」そして「山と高原」及び「あしなか」についての考察を、破棄して書き直さないといけなくなった。すなわち、これら旧稿それ自体はほぼ無効になってしまった。しかしながら、これらの積み重ねがあったればこそ、8月7日の夕方に久し振りに立ち寄った某市立図書館で、書庫の本の出納を待つ間に何の気なしに巡回した書架から手にした本から気付いて、その晩には、若干の検索作業によってほぼ新たな筋を引き直すことが出来たのだから、やはり無駄骨ではなかったのである。
③「高田市、青木方、白銀冴太郎」
 東氏のアンソロジーには私も多大な恩恵を受けているけれども、書誌などの記述をきちんとしてくれないことが多いこと、体裁を合わせるために本文から省いた内容を註や解説などに補って書き添えて置いてくれないことを残念に思っている。8月9日付(096)に『山怪実話大全』第三刷の【追記】について問題にしたように「越後高田」の住所を、そもそも本文と「編者解説」では省略していたことも、著者の素性を考える際に大きな手懸りになるはずの情報なのだから、こう云った辺りまで(当ブログほど網羅主義になっては問題だが)は示して置いて欲しいのである。
 さて、東氏は、杉村氏の遺族(次女)から得た「越後高田(現在の上越市)の友人宅に寄寓していた時期がある」と云う情報を援用して、友人宅から「白銀冴太郎」の筆名で応募したものと見た。そうだとすれば、当時東京在住であった杉村氏がわざわざそんなことをした理由は、恐らく私が2018年8月11日付(030)に妄想したような按配であった、かも知れない。
 しかし、そんな無理のある想像はしなくても良かったのである。――では、この「越後國高田市馬出町六八、青木方/白 銀 冴 太 郎」とは誰なのか、と云うと、友人宅に寄寓していた國學院の学生などではなくて、高田市在住の「青木」と云う人物だったのである。本名では応募しづらい事情があったので、筆名で応募したのである。すなわち「青木=白銀冴太郎」なのである。――何故そんなことが云えるのかと云うと、①②に触れた、昭和5年(1930)刊『山の傳説』の著者が「青木」で、昭和初年当時、高田市在住だったからなのである*1。(以下続稿)

*1:10月25日追記】この辺りは不十分ながら10月25日付(139)私見を述べた。

「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(096)

・白銀冴太郎は杉村顕道に非ず(2)
 さて、問題の東雅夫 編『山怪実話大全』第三刷(二〇一七年一一月二五日 初版第一刷発行・二〇一八年 一 月二八日 初版第三刷発行・定価1200円・山と溪谷社・二三五頁)の追記だが、二二三~二三五頁「編者解説」の、昨日引いた箇所を一部差し替える形で追加されている。二三四頁3~14行め、書き替えられた箇所を仮に太字にして示した。

・・・・。全体の構成や描写の共通性に照らして、顕道が「深/夜の客」にもとづいて再話したことは明らかだろう。もうひとつ考えられるのは、白銀冴太郎が顕道の筆名である可能性だ。
【追記】本書の刊行後、「深夜の客」をお読みになった杉村翠さん(顕道の御息女)から、若き日の顕道が、越後高田(現在の上越市)の友人宅に寄寓していた時期があること、そしてサンデー毎日」の懸賞募集にも何度か投稿していたようだという御教示を賜わった。確証こそ無いものの、「深夜の客」が顕道の作品である可能性は極めて高いといえよう。
 さて、次に問題となるのは、果たして「深夜の客」が「木曾の旅人」の書き替えなのか、/それとも両者に共通する何らかの原話があるのか、という謎だ。発表のタイミングから見て、/「深夜の客」の作者が綺堂作品を目にした可能性は高いように思われるが、綺堂もまた巷間/に伝わる怪談奇聞をしばしば創作の素材としており、後者である可能性もいちがいに否定は/できない。


 ここで1行多くなったため、以下の段落は第一刷に比べ、1行ずつ後にずれている。東氏の2018年1月15日13:48の tweet の時点で版元から増刷の連絡を受けてから、前回引いた2018年1月24日22:58の tweet までの短時日に急遽執筆したためか、説明にも不十分なところがある。二三五頁には第一刷で3行分の余白があったのでまだ2行分余裕がある。もう少し書いても良かったのではないか、と思うのだけれども、結論を先に言えば、この【追記】は破棄されるべきもので、そもそも「蓮華温泉の怪話」を(杉村氏の作として)アンソロジーに入れる処置自体が、今後なされるべきではないと云わざるを得ないのである。
 少々先走ってしまったが、ここで東氏が杉村氏の次女から得た情報について整理して置こう。まづ、前回引用した、第一刷刊行直後の電話の内容の tweet に、
  ① 文体に、杉村顕道の文章に共通する感じがある。
  ②「サンデー毎日」に投稿したことがあった。
とあったが、この【追記】では①の印象論は排除され、代わりに③が追加、②も微妙に変化している。
  ③ 若き日の杉村顕道が、越後高田の友人宅に寄寓していた時期がある。
  ②’「サンデー毎日」の懸賞募集に何度か投稿していたようだ。
 このうち②については、2018年12月1日付(71)に取り上げた、東氏の2018年11月28日18:51の tweet に、

>前RT 「サンデー毎日」の懸賞応募といえば、若き日の杉村顕道!(『山怪実話大全』参照)(雅)

とあって、どうも東氏は確定事項の如く扱っているようだ。これについては(私が第三刷の【追記】を見たのは、2018年8月8日付(27)の【2019年6月14日追記】に述べたように、今年の6月中旬なので【追記】では「何度か投稿していたようだ」と改められていることは知らずに)2018年11月28日付(68)に「サンデー毎日」大衆文芸第19回(昭和11年/1936年度・下)佳作の杉村顕「先生と青春」が、杉村氏の娘が知っていた件であろうとの見当を示して置いた*1
 そして③については、このままでは読者の多くが東氏の意図を理解出来なかっただろうと思われる。すなわち、私は2018年8月6日付(25)に言及した、東氏の2017年9月4日1:03 の tweet に掲載されていた写真にて「越後國高田市馬出町六八、青木方/白 銀 冴 太 郎」と応募者の住所が「サンデー毎日」に掲載されていたことを知っていたので、これは或いは、2018年8月11日付(31)の後半に灰色で「NHKたぶんこうだったんじゃないか劇場」ばりに書き連ねた妄想も、案外当たっているのかも知れない、と思ったものだが『山怪実話大全』の本文では越後国高田市の住所は省略されており、「編者解説」にも越後からの応募であった件には触れていなかったから、ここで唐突に「越後高田(現在の上越市)の友人宅」と切り出されても、地理に疎い読者は東氏の意図するところが分からなかったろうと思われる。
 それはともかく、この「越後高田」の件は電話の内容の tweet になかったことと、少々上手く出来過ぎていることが引っ掛かったのである。(以下続稿)

*1:「複数」と云われると考え直すべきか、とも思うのだが、tweet の「あった」が「いたようだ」に変化しているのも少々自信のない回想と云った風情であるし、昭和11年(1936)の大衆文芸の佳作入選も娘たちの生まれる前、昭和3年(1928)の「サンデー毎日」事実怪談懸賞公募入選の「深夜の客」はさらに遡るのである。「何度か」が事実であったとしても、特にこれを指しているとすることには、慎重であるべきだろう。