瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(095)

・白銀冴太郎は杉村顕道に非ず(1)
 当ブログではこれまで、岡本綺堂「木曾の旅人」を源とするとおぼしき怪異談についてブログ開始直後の2011年1月3日付(002)に、阿刀田高「恐怖の研究」に於ける再話や、2011年1月23日付(008)にて松谷みよ子『現代民話考』に時代を現代にずらした話が載っていること、さらに2013年6月30日付(019)に見たように加門七海が見付けたとされていた、昭和9年(1934)刊、杉村顕(後に出家して顕道)『信州百物語 信濃怪奇伝説集』所収「蓮華温泉の怪話」について2013年7月1日付(020)、既に昭和57年(1982)に国文学者の星野五彦がその著書『近代文学とその源流』に取り上げていたこと等を指摘して来た。
 そこで丁度5年間休んで、昨年再開したのは一昨年刊行された東雅夫 編『山怪実話大全』に紹介された、昭和3年(1928)夏の「サンデー毎日」の懸賞に新潟県高田市(現・上越市)から「白銀冴太郎」の筆名で応募、入選した作品「深夜の客」に注目してのことである。東氏も指摘する通り「蓮華温泉の怪話」は、この「深夜の客」の書き替えとしか思えないのだが、杉村氏が何故そんなことをしたのか、について、東氏は第一刷の「編者解説」では、以下のように述べていた。一部、丁度1年前の2018年8月8日付(27)及び、8月11日付(30)の引用に重なるが、今度は省略せずに抜いて置こう。二三四頁3~13行め、

・・・・。全体の構成や描写の共通性に照らして、顕道が「深/夜の客」にもとづいて再話したことは明らかだろう。もっともこれは再話文学の常道であ/り、かの小泉八雲も「文藝倶楽部」の「諸国奇談」に載った読者投稿作品をもとにして「十/六桜」や「幽霊滝の伝説」などを執筆している。田中貢太郎が『遠野物語』所載の話を再話/している例もある。「深夜の客」は誌面に大きく「事実怪談」と謳われており、内容も『信/州百物語』の編纂企図に相応しいものであるから、顕道がこれを蓮華温泉に伝わる巷説の類/と捉えて蒐集対象としても無理からぬところと思われる。ここで問題となるのは、果たして/「深夜の客」が「木曾の旅人」の書き替えなのか、それとも両者に共通する何らかの原話が/あるのか、という謎だ。発表のタイミングから見て、「深夜の客」の作者が綺堂作品を目に/した可能性は高いように思われるが、綺堂もまた巷間に伝わる怪談奇聞をしばしば創作の素/材としており、後者である可能性もいちがいに否定はできない。


 以後の経緯も2018年8月8日付(27)に略述したが、今度はなるべく詳しく述べて置くこととしよう。――東氏は「編者解説」にはこのように書いていたのだが、刊行直後の2017年11月13日23:53 の tweet に、

ちなみに、何の根拠もないため解説には書かなかったのだが、白銀冴太郎「深夜の客」と杉村顕道「蓮華温泉の怪話」の謎めいた関係については、もうひとつの可能性が存在する(かも知れない)。それは白銀冴太郎が、杉村顕道の別名義である可能性だ。(雅)

と述べていた。ところが翌朝、2017年11月14日9:42の tweet に、

つい先ほど、杉村顕道の娘さんである杉村翠さんからお電話をいただいた。昨夜、『山怪実話大全』をお読みになって、「深夜の客」の作者・白銀冴太郎とはどういう人か、気になったのだという。てっきり昨夜の小生のツイートをご覧になってのお電話かと思ったら、偶然とのこと。驚愕である。(つづく)


 そして分割された続き、2017年11月14日9:47 の tweet に、

(承前)翠さんも、白銀冴太郎という名前に心当たりはないそうだが、「深夜の客」の文体に、御尊父のそれと共通するものをお感じになったという。しかも顕道は「サンデー毎日」にも投稿したことがあったのだそうな! これは白銀冴太郎=杉村顕道という説が、にわかに信憑性を帯びてきましたぞ。(雅)

と、献本を受けて読むまで予断を持っていなかった杉村氏の次女の、素直な直感に基づく証言を得て、第三刷刊行直前の2018年1月24日22:58の tweet に、灰月弥彦の tweet(非公開になってしまったため引用不能*1)に対する返信として、

そうそう、『山怪実話大全』の3刷で解説に加筆したのが、まさにこの「木曾の旅人」系怪談群の件。白銀冴太郎が杉村顕道の筆名である可能性が極めて高くなったという追記を入れました。いずれ4刷が実現した暁には『日本現代怪異事典』の「おんぶ幽霊」の件も加えないと!(笑)(雅)

と、第三刷に「追記を入れ」た旨を記している。さらに灰月氏からの返信 tweet(非公開になってしまったため引用不能)に応えて、2018年1月25日0:51の tweet に、

『山怪実話大全』をご覧になった顕道のお嬢さんから、有力な情報を頂戴しまして。残念ながら確証は未だ得られていないのですけれど……。(雅)

と付け加えている。(以下続稿)

*1:2022年2月12日追記】その後公開に戻っていたのに補うのを忘れていた。――2018年1月24日23:10の tweet「その解説は未チェックでした。まさか同一人物だったとは。」

赤いマント(210)

武田百合子『ことばの食卓』(3)
 昨日の続き。
 小児性愛の気味のある牛乳屋が登場するのはここまでである。
 ①20頁5~12行め②21頁9行め~22頁2行め③21頁9行め~22頁2行め④179頁5~12行め

 まわってくる紙芝居屋は、二人ともが「黄金バット」をやっていた。小学校の|北口/の裏\門を出た先の道に、大きなお屋敷の塀が長々と続いていた。昨日の夕方、|裏門の/ところで\遊んでいたら、赤いマントの男が塀すれすれに向うの方へ駈けて|行った、と/友達が言う。\その話を聞くと、赤いマント、黒の裏をひるがえして飛|ぶように行く怪/人の後姿と長い塀\とを、もう自分も昨日の夕方に見てしまった気|がしてくる。赤マン/トが振り向いたとき、\牛乳屋の顔だった、と言う友達がいた。|【②21】そうじゃない、あの牛/乳屋は人さらいだったので\牢屋に入れられている、だから、|この頃来ないのだ、おか/あさんがそう言った、と言う友\達がいた。


 「あの牛乳屋」が来なくなって、牛乳はどうしていたのだろうか。
 それはともかく、紙芝居が「黄金バット」だったために、赤いマントの怪人の幻影を見た友達が現れた、と云う風に読める。しかし複数の友達が見ているようである。少々普通でない牛乳屋に対して、大人たちが確かめもせずに得体の知れない者としてあらぬ噂を述べていた情況は相変わらずである。そして武田氏は、「黄金バット」の強烈な印象からただちに、怪人の姿を「見てしまった気がして」しまうのである。
 さて、ここで問題になって来るのは、この話はいつのことか、と云うことだが、8月5日付(208)に引いた鈴木修 編「武田百合子略年譜」の続きを見て置こう。『あの頃 ――単行本未収録エッセイ集』512頁11行め~513頁4行め、

一九三八年(昭和十三) 十三歳
四月、神奈川県立横浜第二高等女学校入学。【512】
 
一九四二年(昭和十七) 十七歳
八月、長兄・新太郎結婚。この頃、樫本みつ、鈴木家を辞去。
 
一九四三年(昭和十八) 十八歳
三月、同女学校卒業。学校の紹介で横浜の図書館に勤務。・・・・


 武田氏が栗田谷尋常小学校を卒業したのは昭和13年(1938)3月、4月に神奈川県立横浜第二高等女学校(現在の神奈川県立横浜立野高等学校)に入学している(3回生)。横浜にも赤マント流言が広まっていたことは、小沢信夫の小説「わたしの赤マント」に、2013年10月28日付(07)に引いたように雑誌への投稿の形で紹介されているものがあるが「葉山」在住の「鷹司由紀夫」は誰のことなのか、見当をつけられないままである。かつ「横浜の山手小学校」と云うのも現在、見当たらない。8月5日付(208)に述べたように、空襲で焼失して統廃合されてしまった可能性もあるけれども。しかし内容は2018年11月23日付(165)に引いた、やはり小学校の低学年の頃に横浜で赤マント流言を体験した評論家赤塚行雄の回想と重なっている*1。ただ、2018年11月23日付(165)にも述べたように時期が、東京と同じく昭和13年度のうちであったのか、それとも昭和14年度に入ってからなのかが、はっきりしない。
 さて、武田氏は昭和13年度に高等女学校に入学しているから、小学校の裏門や紙芝居屋と絡めたこの回想は昭和12年度以前のことのように思われる。だとすると昭和14年(1939)2月中旬に東京で大流行した赤マント流言よりも以前のこととなる。どこかに記憶違いが混ざっている可能性もあろうし、昭和14年に赤マント流言が横浜で広まった当時、武田氏がどのように接したのかも気になるところ(すなわち、殆ど意識せずに過ごしてしまったのか)だが、書かれている通りであったとすれば、これは赤マント流言以前の、その発生・流行の素地を述べたものとして位置付けられるように思われるのである。(以下続稿)

*1:「由紀夫」と「行雄」が重なっていることも少々気になるのだけれども。