瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(214)

・朝里樹『日本現代怪異事典』(2)
 昨日は、朝里氏が人攫いの赤マントの典拠とした『魔女の伝言板』『現代民話考7』に、改めて批判を加えて置きました。ともに(朝里氏は体験者には注意していないのですが)三原幸久と北川幸比古が赤マント流言の当時耳にした噂なのですけれども、時期が明らかに間違っています。
 そしてしつこいようですが「常光徹他編著」がどうにも引っ掛かります。白水社版『日本の現代伝説』シリーズの編者で、4冊全てに名前が出て、かつ、ちょっと怪談が好きと云った程度(?)の者も知っている名前と云うことで選択しただけかも知れませんが、少々権威主義的な響きが感じられるようです。――常光氏とて、自身が論文にしたり、世間話研究会や昔話伝説研究会の研究者が論文にしてきっちり検証したりしたような、時間を費やして、信頼性について一々検討を加えた資料だけを扱っている訳ではないでしょう。いえ、常光氏を始めとする研究者たちが論文や著書に載せている事例とて、そのまま信用出来るとは思えないのです。上記の事例も、北川氏の年齢と学年は『現代民話考』だけでは解決出来ないから仕方がないとしても、三原氏の方は『魔女の伝言板』だけでも解決可能なのですから、やはりごく初歩的な見落しであると云わざるを得ません。しかしこれまで気付かなかった人が多いらしいことからすれば、私が特に疑り深いだけかも知れませんが。
 さて、朝里氏が全体としてどの程度、赤マントの事例を集め得たかは分かりませんが、何に拠って説明を組み立てて行ったかは「赤マント(あかまんと)」項から推察出来るようです。すなわち、人攫いでなくなった「日本現代」の赤マントの「怪異」について述べた次、26頁中段14~16行め、

 このように半世紀以上の間語られ続ける/怪異だが、その発生の背景にはいろいろな/説がある。

として、幾つかの説を取り上げているのですが、まづ、中段17~20行め、

 最も古いものは一九〇六年に起きた「青/ゲットの男事件」が元になったという説で/ある。一九〇六年二月一四日付「北國新/聞」の記事を参照すると、‥‥

として、2014年5月22日付「松本清張『死の枝』(2)」及び2014年5月23日付「松本清張『死の枝』(3)」にも取り上げた、明治39年(1906)2月に福井県で発生した事件に言及します。なお「北國新聞」の記事は、松閣オルタ「オカルト・クロニクル」の「青ゲット殺人事件――都市伝説となった事件(公開日: 2014/03/23 : 最終更新日:2017/09/28)*1」にて複写を見ることが出来ます。
 このサイトは本になっているけれども、残念ながら青ゲット殺人事件は収録されていないようです。

オカルト・クロニクル

オカルト・クロニクル

 それはともかく、朝里氏がこの事件を取り上げたのは、この段落の最後、下段9~15行め、

‥‥。さらにこの青/ゲットの男事件は毛布の色が赤となり、舞/台を昭和の戦前に移した都市伝説「赤毛布/の男事件」を生み、これが赤マントの元に/なったと言われることもある。青が赤に変/わった過程については物集高音*2著『赤きマ/ント』という小説にて考察されている。

とあるように物集高音『赤きマント』に拠るのです。但しこの事件、今のように放送(テレビ・ラジオ)がなく、新聞も現在のような全国紙が存在しなかった時代の東京で、有名であったとは思えません。中野並助『犯罪の縮図』に載った「赤毛布を着た殺人鬼」によって初めて広く知られるようになったのではないか、と思われます。そして2014年5月22日付「松本清張『死の枝』(2)」に引いた『赤きマント』の記述にあるように、この本は昭和22年(1947)刊なのですから、昭和14年(1939)の赤マント流言よりも後、従って私は「青ゲット殺人事件」が赤マント流言に影響を与えたとは思っていません。その可能性を完全に排除しようとは思わないけれども、少なくとも「発生の背景」に位置付けることは無理だろうと思うのです。ですから私は当ブログでこの説には全く(と云って良いくらい)触れて来ませんでした。検討を加えたところで、所謂《無理筋を引く》ことになるだけだとしか思えないからです。『昭和十四年の赤マント』上梓の暁には、一応、触れますけれども。
 朝里氏はもちろん白水社版『日本の現代伝説』シリーズはきちんとチェックしているはずですが、「赤マント」項に、従来引かれることの多かった『現代民話考』の北川幸比古(東京)の話ではなくて『魔女の伝言板』の説(朝里氏は触れていないが大阪)の方を筆頭に挙げたのは、昨日も触れた2014年2月1日付(101)に引用したように、物集氏が『赤きマント』にて、この「三原って云う‥‥大学教授」の証言を重要視していることの影響ではないか、と思われるのです。当然のことながら大学教授も間違う、としか、言い様がないのですけれども。(以下続稿)

*1:北國新聞」の複写は、2014年5月22日付「松本清張『死の枝』(2)』に触れたように公開当初からあったと記憶する。

*2:ルビ「もずめたかね」。

赤いマント(213)

・朝里樹『日本現代怪異事典』(1)
 それでは、11月24日付(212)に取り上げた朝里樹 監修『大迫力! 日本の都市伝説大百科』の下敷きになったと思しき、朝里樹『日本現代怪異事典』26頁上段5行め~27頁中段17行め「赤マント(あかまんと)」項を検討して見ましょう。以下の内容は、これまで当ブログに書いたことの繰り返しになります。だから本書を取り上げて来なかった訳ですが、この際、煩を厭わず(私もいろいろと忘れていることもありますので)取り組んで見ることとします。
 まづ26頁上段6~8行め、

 夕暮れ時に赤いマントを羽織って現れる/という怪異。子どもを誘拐し、殺害し/てしまうという。

と、メインの「怪異」を説明しています。従って便所の方は別に取り上げていて、中段4~13行め、

 また学校のトイレに現れるパターンも有/名であり、その場合は「赤いマントはいら/んかい」といった赤いはんてん赤いちゃんちゃんこと似た問いかけを発し、それに/「欲しい」と答えると背中をナイフで刺さ/れ、まるで赤いマントで背中を覆ったよう/にされる、などと続く。トイレに現れるも/のでは赤マント・青マントも有名だが、こ/ちらの場合は赤か青を選ばせるため問いか/けの部分に違いが見られる。

と、むしろこちらの方が「現代日本」ではメインになる「怪異」なので詳しくなっており、太字になっている別項目への言及も多くなっております。
 さて、項目のメインになっている「怪異」の方に戻って、続けて上段9~17行め、以下のような説明をしております。

 常光徹他編著『魔女の伝言板』によれば/一九三七年頃にはすでに赤マントが出現/して警察官が出動したことがあったとされ/る。また松谷みよ子著『現代民話考7』に/よれば一九三六、七年頃、赤マントの怪人/が人々を襲い、あちこちに死体が転がって/いて警察や軍隊が片付けて回っているとい/う噂が流れ、その正体は吸血鬼であるとさ/れたと語られていたという。・・・・


 この段落にはもう1例、紹介されているのですが、差当りこの2例について検討して置きましょう。――本書について私が危ないと思うのは、典拠及び収録されている話について、所謂「史料批判」的な検討が弱い点です。それだのに朝里氏が源泉研究めいたことをやりたがっているのが、甚だ危ないと思うのです。
 源泉研究をやりたいのであれば、もっと典拠について明確に記述しないといけないでしょう。すなわち「常光徹他編著『魔女の伝言板』」ではななく、同書所収、三原幸久「トイレ」とするべきです*1。その『魔女の伝言板』の「一九三七年頃には・・・・警察官が出動した」件は2014年2月2日付(102)に引用したように、三原氏本人の回想なので尚のこと「常光徹他編著」とすべきではないと思うのですが、2014年2月3日付(103)に検討したように、この年は間違っています。過去の回想を使用する場合、このような記憶違い、勘違いがしばしば見られるので、体験したとする学年・年齢と生年月日が齟齬しないか、確認が必要です。三原氏の場合、確かに「赤いマント」の節には当時の居住地や小学校について触れていません。しかし、2014年2月1日付(101)に引いた『魔女の伝言板』の「編・著者略歴」に昭和7年(1932)大阪府生とあり、そして2014年2月3日付(103)に引いたように「トイレ」の章の別の節に「(昭和十二年大阪市立勝山国民学校入学)」とありました。昭和12年(1937)国民学校入学とは、ちと気が早いのですが、それはともかく、生年が間違っていなければ小学校入学の年が間違っていることは明らかです。
 そして『現代民話考7』の方も、話者の児童文学作家・北川幸比古に注目するべきでした。いや、朝里氏の視点が出典に記述されている内容に偏って、それ以上の掘り下げをしていないことが気になるのです。実は『現代民話考』の「昭和十一年、十二年頃」も2013年10月24日付(003)に検討したように間違いで、昭和5年(1930)生の北川氏が「小学校三年生」だったのは昭和14年度なのです。そして北川氏が東京市大久保尋常小学校に通っていた昭和14年(1939)2月に、赤マント流言が東京市をパニックに陥れたことは当ブログで続けて新聞・雑誌の記事を発掘して提示したところです。
 三原氏は北川氏の示した時期につられたのではないか、と私は思っているのですが、それはともかく、私たちとて、中学・高校卒業の年くらいは覚えているでしょうが、小学校入学の年まで、すっと答えられる人は少ないでしょう。それを責めても仕方がありません*2。私たちは貴重な証言を得たことに感謝しつつ、これで間違いないか、間違いがあればそれをこれ以上広めないよう史料批判めいた検討を加える責任を、利用者として負わされているのです。と云ったら、少々大袈裟でしょうけれども、しかし回想と云うものはそこまでしないことには安心して使用出来ないことは、指摘せざるを得ないのです。(以下続稿)

*1:朝里氏が本文中の言及で白水社版『日本の現代伝説』シリーズを全て「常光徹他編著」としてしまっていることについては、2018年8月18日付「「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(35)」に批判して置いた。

*2:だとすると昭和7年(1932)生の三原氏が昭和12年(1937)に小学校に入学するのはおかしいとだけ指摘しても、ピンと来ない人が多いかも知れない。――4歳で小学校に入らないだろう、と云えば納得してもらえるだろうか。学齢が満7歳になる年度から始まるのは当時も今も変わりない。